魔王軍との戦争が続く、とある日の深夜。
大草原の野営地は、つかの間の深い静寂に包まれていた。
兵士たちはそれぞれの幕舎で明日の激戦に備え、身を休めている。
その静寂の中を、一つの影が動く。
闇そのものに溶け込むかのように音もなく、一切の気配もなく、それは一つの目的地へと進んでいく……。
地面を滑るように動く長い影。時折月明かりを反射して、きらりと七色に輝く美しい蛇の尾が、正体を静かに示していた。
やがて影は野営地の、ちょうど中心に位置する幕舎——アドリアンの寝室の前で、動きを止める。
そして一瞬の逡巡の後、水が壁に染み込むかのように、中へと侵入していく。
「……」
——その影の主は、セルペントスの若き女王ナーシャ。
幕舎の中は静かだった。
月明かりだけが入り口の隙間から、細く差し込んでいる。
柔らかな光の中に、一人の青年が穏やかな寝息を立てて眠っていた。
(アドリアン……)
無防備で、あどけなさすら感じさせる英雄の寝顔。
ナーシャは手に、一族に伝わる神殺しの毒が塗り込められた短剣を握りしめながら、その場に立ち尽くしていた。
(なんでそんな、安心しきった顔で眠ってるの……)
彼女の脳裏に、これまでのアドリアンとの旅路が鮮やかに蘇る。
初めて出会った時の、人を食ったような不遜な笑み。
民や子供たちと一緒になって、楽しそうに笑っていたり。
そして、自分のささやかな願いを聞いて「約束だ」と優しく微笑んでくれた、あの時の顔──。
その一つ一つが鋭い刃となって、ナーシャの心を深く抉っていく。
「うっ……」
彼女の瞳から大粒の涙が、後から後からとめどなく溢れ出した。
だが——。
温かい記憶を、悍ましい幻影が無慈悲に上書きしていく。
それは、血の海の中で冷たい瞳で、獣人たちを蹂躙していく暴君の姿。
「こうするしか、ないの……」
ナーシャは涙を流しながら、そう呟いた。
震える両手で、毒の短剣を強く握りしめる。
──駄目だった。
気丈に振舞おうとしたのに。
精一杯、笑顔で応えようとしたというのに。
耳を塞いでも、仲間たちの断末魔の悲鳴が聞こえる。
目を閉じても、冷たい瞳のアドリアンが、自分を嘲笑っている。
あまりの苦しみに、自害を試みようともした。
そうすれば、この苦しみから解放されるのではないか──。
そんな甘い誘惑がナーシャの脳裏を過った。だが、それもすぐにかき消された。
もし自分がここで死んでしまえば、本当にアドリアンを止められる存在はいなくなってしまうのだから。
魔王を倒した後、あまりにも強大すぎる英雄を止められる者など、どこにもいない。
そして──自分ならばアドリアンを殺せるかもしれないと分かった瞬間、この衝動は大きくなってしまった。
「……」
ここで。
英雄がまだ英雄である、今のうちに。
私がこの手で——。
「私は……私は……やらなくちゃ、いけないの……」
ナーシャの心は、もはや正常ではなかった。
優しさ、友情、信頼……そして恐怖。
全てがぐちゃぐちゃに混ざり合い、彼女を狂気という名の闇の底へと引きずり込んでいく。
ナーシャは震える両手で、短剣をアドリアンの無防備な胸の上へと掲げた。
彼女の手に握られているのは、ただの刃ではない。
セルペントスの一族に遥か古の時代から受け継がれている毒が塗られた短剣。
神すら殺すと言われる猛毒。これをまともに受ければ、英雄ですら確実に──
(ごめんね、アドリアン……)
涙が短剣の柄を濡らしていく。
今、この手を振り下ろせば。もう二度と人を食ったような不遜な笑みを見ることはできない。
もう二度と不器用で誰よりも優しい、温かい手に触れることもできない。
ガクシャと三人で他愛もない話で笑い合った、穏やかな夜も、二度と訪れることはない。
(私はみんなを守るんだ……)
そして、ついに。
彼女は瞳から最後の涙を一筋こぼれ落とすと唇を強く噛み締めた。
瞳には、もはや一切の迷いの色はなかった。
「——さようなら」
ナーシャは悲痛な呟きと共に。
神殺しの毒の刃を、眠る英雄の胸に振り下ろす。
その時だった。
幕舎の中の、全ての時間が止まった。
「!?」
──時間が極限まで引き延ばされる感覚。
そして、『声』が響いた。
——星に愛されし英雄に仇なす、愚かなる定命の者よ──
「え?」
どこからともなくナーシャの魂に直接響き渡るかのような、荘厳な声。
眠っているはずのアドリアンの身体の輪郭が、地上に降臨した太陽のように、眩い聖なる炎で燃え上がった。
炎は渦を巻きながら、荘厳な人型を形成していく。
「──」
燃え盛る王者の鬣。全てを見透かす灼熱の双眸。そして全身から放たれる、強大で神々しい威圧感。
英雄と共に在る大精霊が一柱——炎の大精霊イフリティアが、その姿をこの世に顕現させた瞬間であった。
「あっ……」
彼女がアドリアンの胸に振り下ろしたはずの短剣は、イフリティアによる守護の炎により弾き飛ばされる。
そして、ナーシャは見た。
英雄を害そうとした、「敵」を見る瞳で、こちらを静かに見下ろす炎の神の姿を。
──今ここに、我らが盟友アドリアンとの『契約』を履行する——
イフリティアの全身が一度だけ赤く煌めいた。
——大精霊。
彼らは、ただ使役されるだけの存在ではない。
この星に認められた英雄を守護し、代わりに英雄はこの世界を守るという絶対の契約を交わした、『対等』なる盟友。
そして大精霊たちがアドリアンと交わした、最も根源的で絶対的な契約が存在する。
それは『英雄が眠りにつく時、その無防備な魂を守るために発動し、あらゆる敵意を感知して脅威を完全に排除する』というもの──。
契約は、履行される。
たとえ敵意の主が、英雄のかけがえのない仲間であったとしても。
イフリティアが燃え盛る腕を、ナーシャへと無慈悲に振り下ろした。
次の瞬間、聖なる浄化の炎の奔流がナーシャの華奢な身体を容赦なく包み込んでいく。
「あがっ——っ!?」
熱い。
痛い。
苦しい。
違う。そんなちっぽけな言葉では表現できない。
自らの存在そのものが根こそぎ焼き尽くされていくかのような。
(ア……ド……リ……アン……!)
薄れゆく意識の中で、ナーシャは一人の英雄の名を呼んだ。
だが、その声が音になることはない。
イフリティアが放つ聖なる炎は、決して消えはしないのだから。
凄まじいまでの熱量とナーシャの声にならない悲鳴。
「……?」
アドリアンは悪夢の底から無理やり引きずり出されるかのように、目を見開いた。
そして、彼は見た。
「な……に……?」
自らの幕舎の中が、残酷な炎の光で満たされているのを。
そして、その炎の中心でナーシャが身体を焼かれているという、信じがたい悍ましい光景を。
「──」
アドリアンの瞳が驚愕と絶望に、極限まで見開かれる。
そして、彼の喉から今まで誰も聞いたことのないような、張り裂けるかのような絶叫が放たれた。
「イフリティア!止めろ——っ!!!!」
英雄の言葉を受け、ナーシャの身体を焼いていた聖なる炎が消え失せた。
だが、そこに残されたのは、惨い光景であった。
快活な笑みを浮かべる、美しい蛇の少女。
その肌は聖なる炎によって無残に焼きただれている。
もはや立つことすらできず、黒い煙を上げるその身を、ひれ伏すように床に横たえていた。
「ナーシャ……!」
アドリアンは、彼女の元へと、もつれる足で駆け寄る。
そして悲しみに満ちた、絞り出すような声を上げた。
「ナーシャ……ナーシャ……!なにが起こって……?」
英雄の慟哭。
それに答えるかのように、イフリティアの一切の感情を含まない無機質な声が響き渡った。
──この存在は、アドリアンを害そうとした『敵』。故に契約により滅却した──
敵?
敵だって?俺を害そうとした、だって?
アドリアンの瞳が信じられないといったように深い困惑に染まっていく。
アドリアンは大精霊を、完全に制御しているわけではない。
それぞれが独自の、そして人間とは全く異なる価値観を持つ、独立した大いなる魂。
だからこそ彼は、常に、その力の使い方には細心の注意を払ってきた。強大だが融通の利かない力が、自らの大切な仲間たちに決して牙を剥くことがないように、と。
だが——かろうじて保たれていた均衡は、こうして残酷な形で破られてしまった。
「待ってろ、ナーシャ!今、回復魔法を……!」
アドリアンは必死に彼女に、自らが持つ最高位の回復魔法をかけようと手を伸ばす。
──それがもはや、完全に無駄な行為であると分かっていながらも。
これほどの魂の根源にまで達するほどの損傷。
最早、どのような高位の回復魔法であろうと、命を繋ぎ止めることなど、できはしない……。
その事実を、誰よりも魔法というものに精通しているアドリアン自身が一番よく分かっていた。
だが、理屈ではない。
友を救いたい。その一心だけでアドリアンは、必死に手を伸ばし──。
「だ……め……」
しかし、その手は途中で止まった。
ナーシャが焼けただれた腕を、最後の力を振り絞って伸ばし、アドリアンの優しい手を力強く握りしめたのだ。
弱々しく、だがどこまでも確かな力で。
「ナーシャ……?」
その時、床に落ちている短剣がアドリアンの視界に入った。
それはナーシャがよく使っていた暗殺用の短剣。
「……」
短剣。イフリティアが言った『敵』。
それはすなわち、彼女が自分を──。
(──!)
その時だった。アドリアンの脳裏に。先日ガクシャと交わした会話が鮮やかに蘇る……。
『ナーシャ様を元気づけるために、たまには奇襲遊びを『成功』させてあげるのというのは、いかがでしょうか……?』
『……なるほど!素敵なアイディアだね。たまには、彼女にも勝たせてあげなきゃね──』
優しさゆえについた、一つの嘘。
それは傷ついた仲間を思う、不器用で優しい嘘。
「……っ」
──あぁ、そうか。あれで、勘違いさせてしまったんだ。
アドリアンは、全てを理解してしまった。
優しさが、最後の引き金となったのだと──。