「はぁっ……はぁっ……はぁ……」
薄暗い、幕舎の中。
一つの影が長く、美しい虹色の尾を苦しげに、何度も何度も床に叩きつけながら悶え苦しんでいた。
──ナーシャである。
彼女の額からは脂汗が絶え間なく流れ落ち、唇からは呻き声とも悲鳴ともつかぬ苦悶の声が漏れ続けている。
瞳は固く閉じられているが、瞼は痙攣するように小刻みに震えていた。
「違う……違う違う!アドリアンがあんなことするはずない……!」
ドクドクと、警鐘のように自らの心臓が激しく脈動する。
その音に呼応するかのようにナーシャの脳裏にとある光景が、鮮やかに蘇る──。
──アドリアンが『星涙剣』を大草原の獣人たちへと容赦なく振り下ろし、蹂躙していく地獄の光景だ。
「消えろ……消えろ!こんなの、幻だ!嘘だ!」
ナーシャは何かに抗うようにそう叫ぶ。
だが、一度脳裏に焼き付いてしまった光景は決して消えてはくれなかった。
アドリアンが一度、剣を振るう。
星屑の奔流が、ウルグリッドの屈強な熊の戦士たちを自慢の巨体ごと跡形もなく消滅させていった。
(──ちがう!アドリアンはみんなをそんな風に傷つけたりしない!)
彼が一度、指を鳴らす。
大地から無数の光の槍が突き出し、ヴォルガルドの俊敏な狼の戦士たちを容赦なく串刺しにしていく。
(これは、夢だ!ただの、悪夢なんだ!)
そして彼が一歩踏み出すだけで。
触れるもの全てを……リノケロスの頑強な戦士も、アクィラントの誇り高き翼も、全てを塵芥のように風化させていく。
(嘘だ……これは、嘘の光景なの……。だってアイツは、あんなに優しく笑うんだから……)
彼女の必死の抵抗も虚しく。
脳裏に焼き付いた光景は、責め苦の手を決して緩めようとはしなかった。
「——あああああああああっ!」
ナーシャは獣のように、地面の上で激しく転げまわる。
虹色の尾が自身の意思とは無関係に、一本の巨大な鞭となって周囲のものを手当たり次第に破壊していく。
テーブルは無残に砕け散り、水差しは甲高い音を立てて割れ、彼女が大切にしていたであろう装飾品の数々が、床の上へと無残に散らばっていった。
「はぁっ……はぁっ……」
どれほどの時間が、経っただろうか。
全てを破壊し尽くし、嵐が過ぎ去ったかのようにナーシャの動きが止まった。
彼女は自らが作り出した無残な残骸の中心で、ぐったりと身を横たえている。
だが——。
「しっかり、しないと……」
ぽつりと。
確かな意志を宿した声が唇から漏れた。
「私は……女王、なんだから……」
砕け散った家具の破片を支えに、ゆっくりと身体を起こそうとする。
そして、頭と尻尾を深く垂れる。
「……」
昨日の軍議での愚かな失態が、脳裏に蘇る。
仲間を失った自分のことを、アドリアンが心配してくれただけだったのに。
温かい手に触れられた、ただそれだけで——。
(あんなこと、したいわけじゃなかった……!)
頭では分かっている。
アドリアンは仲間だ。恩人だ。かけがえのない戦友だ。
──だというのに、あの幻影が脳裏に焼き付いて離れない。
彼の優しい笑顔が、幻影の中の冷たい殺戮者の顔と、重なって見えてしまうのだ。
そして、身体が勝手に彼を拒絶してしまった。
(私、なんて馬鹿なんだろう……)
あの場はアドリアンがいつもの軽口で、場の空気を元に戻してくれた。
レオニス様も他の族長たちも、みんなきっと私が仲間を失ったショックで、少しおかしくなっているだけなのだと、そう思ってくれただろう。
だが、これ以上おかしな行動を取り続ければ……きっとみんなに感づかれてしまう。
ナーシャは震える両手で自らの顔を覆い隠すように、強く押さえる。
「──これじゃ、だめ」
彼女は無理やり口角をぐい、と吊り上げた。
それはお世辞にも上手な笑顔とは言えない、ひどく引き攣った笑顔。
「演技でもいい。笑わないと」
そうだ。
自分に出来ることは、ただ一つ。
今まで信頼してきた、アドリアンを信じること。
心の中にはまだ疑念が残っているが、他の手段なんてない。
──私は彼を、信じるしかないのだ。
「……アドリアンに……謝ろう……心配かけちゃったから……」
そう呟くと、彼女は自らが荒らしてしまった無残な幕舎の中を一度も振り返ることなく、後にするのであった。
♢ ♢ ♢
幕舎を出ると、戦場の生々しい空気がナーシャの肌を撫でた。
あちこちで負傷した兵士たちの呻き声が聞こえ、薬草を煎じる匂いと微かな血の匂いが風に乗って運ばれてくる。
彼女はアドリアンを探して、陣地の中を歩き始めた。
その時、ふと。
どこからか、この場には不似合いな楽しげな声が聞こえてきたような気がした。
ナーシャは、その声に導かれるように自然とそちらの方角へと歩みを進める。
「……?」
そこに広がっていたのは、陣地の中央……炊き出し場にできていた、温かな笑い声に満ちた人だまりであった。
そして、その輪の中心に彼がいた。
「さぁさぁ、遠慮しないで大草原のもふもふ戦士たち!このアドリアンが直々に勝利の願いを込めて、じっくりコトコト煮込んだ特製のシチューだよ!これを腹いっぱい食えば、明日の勝利は約束されたようなもんだ!」
アドリアン。
彼は不格好なエプロンを身に着け、巨大な寸胴鍋の中身を楽しそうに兵士たち一人一人へと配って回っていたのだ。
その姿は英雄でも指揮官でもない。ただ仲間たちの腹を満たすために懸命に働く、一人の気さくな人間の青年の姿であった。
「ア、アドリアン様!貴方のような、偉大な英雄様がこのような雑務をする必要はありません!どうか我々にお任せください!」
慌てて一人の狼の兵士が、アドリアンから杓子を受け取ろうとする。
しかしアドリアンはその手をひらりとかわすと、決まってこう返すのだ。
「『このようなこと』?とんでもない!これは、みんなの士気を腹の底から爆上げさせるっていう、とーっても重要な『最前線』じゃないか」
アドリアンが悪戯っぽく笑いながらそう言うと、兵士たちはぐうの音も出ない。
戸惑ったように、そしてどこか嬉しそうにアドリアンの手から温かいシチューを受け取るしかなくなってしまうのだ。
「……」
ナーシャは物陰から、その光景を静かに見つめていた。
彼女の脳裏に、彼と出会ってからこれまでの数えきれないほどの記憶が鮮やかに蘇る。
(——そうだった。アドリアンは昔からずっとこうだった。どんなに有名になっても偉ぶったりしないで、誰とでも同じ目線ですぐに打ち解けちゃう、人間……)
変わらない彼の優しさに、ナーシャの心は陽だまりのような温かい気持ちと、彼を心のどこかで疑ってしまっている自分自身への、どうしようもない罪悪感とでぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。
(私がいつまでもこんな顔をしていたら、アドリアンに余計な心配をかけさせちゃう)
ナーシャは自らを奮い立たせるように拳を握りしめた。
謝罪の言葉なんて、いらない。
彼が一番安心してくれる方法は、きっと一つだけ。
いつもの元気なナーシャに、戻ることだ。
(——よし、決めた)
彼女は物陰からアドリアンの姿を、今度は狩人の目でじっと見つめる。
彼の周りには、まだ多くの兵士たちがいる。だが彼の意識は完全に目の前のシチューと、仲間たちとの軽口に注がれている。
──その背中は、あまりにも無防備だ。
(どうせまた、いつものように簡単にあしらわれちゃうんだろうけど……)
ナーシャは心の中でどこか自嘲するように呟くと身に宿すセルペントスの戦士としての本能を呼び覚ます。
彼女の呼吸は浅く、静かになる。その存在は完全に周囲の物陰と一体化した。
そして——
「後どれくらい残ってるかなぁ……ありゃ、こんだけ?うーん、流石は大食らいの獣人さんたち……」
アドリアンが巨大な寸胴鍋の中身の量を確認しようと、無防備な背中を完全にこちらへと向けた、その瞬間。
ナーシャはそれまで潜んでいた物陰から、一匹の俊敏な蛇となってアドリアンへと一気に飛び掛かった。
「シャッ!!」
突然の奇襲。
「!?」
周囲で食事を受け取っていた兵士たちが、何事かと驚愕に目を見開く。
しかし彼らが反応するよりも早く、ナーシャの身体はアドリアンのがら空きの背中へと完璧に吸い込まれるように激突していた。
「──おっと!?」
彼はナーシャの勢いに前のめりに押し倒され、二人のもつれ合った身体が地面の上を、ごろんごろんと転がっていく。
(──え?)
砂埃が舞う中、アドリアンの上に馬乗りになった体勢でナーシャは完全に固まっていた。
(成功、した?)
いつもなら絶対にいなされるはずの、この奇襲が。
アドリアンが背中にでも目がついているかのように、軽々とあしらってくるはずの、この「遊び」が。
いとも容易く、成功してしまった。
(どうして……?)
ナーシャが信じられない結果に、驚愕に固まる中。
彼女の下敷きになっているアドリアンが、大げさに息を吐きながら悪戯っぽく笑った。
「ナーちゃん。今日の君は、一段と奇襲のキレが、冴え渡ってるじゃないか。まさか世界を救う英雄アドリアンが、奇襲にやられちゃうだなんて……!」
「──」
困惑するアドリアンは、両手を大げさに上げてみせた。
「いやぁ、参ったな~!今回は正真正銘、君の完勝だ!」
そう言うとアドリアンはわざとらしく無防備な喉元を、ナーシャへと完全に晒す。
そして、下から楽しそうに、いつものように屈託なく笑う彼女の顔を見上げた。
しかし。
「……」
──ナーシャは、笑っていなかった。
彼女はアドリアンの上に馬乗りになったまま、爪先を彼の喉元へと突きつけている。
その指先は、震えていた。
(なんで、成功したの……?い、いや……それより)
その瞳に浮かんでいたのは、勝利の喜びではない。
彼女の脳裏には先ほどまでとは全く別の、一つの恐ろしい考えが閃いてしまっていたのだ。
(——今、武器を持ってれば。アドリアンを殺せた……?)
英雄を殺せるかもしれないという事実。
それが、少女の中に燻っていたちっぽけな疑惑の種に芽を出させる、何よりの養分となった。
疑惑は、苦しみへ。
苦しみは、決意へ。
「……ナーちゃん?」
アドリアンがいつまでも動かないナーシャに、不思議そうに問いかける。
その問いかけに、ナーシャ、ゆっくりと視線をアドリアンへと落とした。
「……」
その瞳には、もはや先ほどまでの戸惑いや、悲しみの色はない。
ただ冷たく静かな、何かを固く決意した者の光だけが、宿っていた。