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第百六十六話

魔王軍と獣人連合軍による、大草原の運命を賭けた決戦——。

初日は魔侯爵グラシエラの突出と、それを好機と見た英雄アドリアンの奇策によって連合軍の圧倒的勝利に終わった……かに見えた。

しかし、魔王軍もさるもの。

グラシエラは自身の軍勢に多大な損害を出しながらも、川岸に待機していた魔侯爵ゼルディオスの援護を受け、命からがら自軍の陣営へと合流することに成功したのだ。


そして、その後の展開は完全に膠着した。

初日に、手痛い損害を被った魔王軍は無理な渡河作戦を諦め、対岸から膨大な魔力を以て散発的な魔法砲撃を繰り返すのみ。

対する獣人たちもまた、軍師ガクシャの指示通り決して川を渡ることはせず、魔法の雨を堅固な守りで凌ぎ続けた。


互いに決定打を欠いたまま、矢と魔法の応酬だけが昼夜を問わず続けられる。

戦場には嵐の前の静けさにも似た、重い静寂が漂っていた。




♢   ♢   ♢




大草原に築かれた、獣人たちの連合軍の陣地。

そこにいる誰もが、緊張の色を隠せないでいた。しかし、瞳の奥に宿る闘志の光は決して消えてはいない。


その陣地の中央、厳重な警備が敷かれた指揮官たちの幕舎で、一人の青年の悔恨に満ちた声が静かに響いた。


「——申し訳ございません。全ては、私の未熟な策が招いた結果です」


深く頭を下げているのは顔をフードで隠している獣人——ガクシャであった。

幕舎の中には各部族の長たちが険しい表情で座っている。

その中でガクシャの謝罪の言葉が向けられているのは、先の戦で深手を負ったセルペントスの女王ナーシャだ。


「ガクシャのせいじゃないよ」


ガクシャの謝罪に対し、ナーシャはやつれたように、だが優しい笑みを浮かべて言った。


決戦の初日。ガクシャの策は、一つの想定外によって歯車を狂わせた。


魔大公ベゼルヴァーツによって、ナーシャ一人を残しセルペントスの猛者たちが全滅したという事実──。

その報せは、獣人軍全体に大きな衝撃となって駆け巡った。


自分たちに英雄アドリアンという、絶対的な光がいるように。

魔族には魔大公ベゼルヴァーツという、絶対的な闇が存在する。

その残酷な事実は、獣人たちの間に、改めて魔族という存在の底知れぬ恐ろしさを骨の髄まで再認識させていた。


「私が早まっただけなの。私の任務は、あくまで分断された敵の将軍を討つための伏兵。それなのに、ベゼルヴァーツに奇襲を仕掛けたのは、私の独断だから……」


ナーシャは瞳に悔し涙を浮かべ、強く唇を噛み締めた。

あの老魔族さえ殺すことができれば長く悲しい戦いが全て終わるのだと——そう浅はかにも考えてしまった、自分自身の未熟さゆえの過ち。

そのせいで、かけがえのない仲間たちを死なせてしまったのだと、彼女は自分自身を責め続けていた。


そんな彼女の言葉をヴォルガルド族長グレイファングが、静かな声で遮った。


「誰の責任でもない。ベゼルヴァーツがたった数人の供だけを連れて、あのような場所にのこのこと姿を現すなどと、一体誰が予想できようか……」


グレイファングのナーシャを慮る言葉。

他の族長たちもまた静かに頷いた。


「……空から見渡していたのに、早く異変に気付けなかった俺もまた、責められるべき者だ」


ゼファーが、静かに言う。


「まぁなんだ、ナーシャ。あの化け物を前にして生き残った。……それだけで、十分だろ?」


イルデラはぶっきらぼうに、瞳には確かな労りの色を浮かべていた。

王も、そして他の族長たちも無言で頷く。


そう、誰も彼女を責めてなどいない。

だが仲間たちの優しさが、かえってナーシャの心を深く締め付けるのであった。


そして、最後にアドリアンが口を開いた。

いつものような軽口や悪戯っぽい笑みは、ない。

ただ、瞳に、真剣で優しい光を宿して、彼は俯くナーシャの元へとゆっくりと歩み寄る。

そして震える彼女の華奢な肩に、そっと手を置いた。


「すまない、俺がもっと早く助けに……」


その、瞬間であった。


「——っ!?」


ナーシャの身体が、灼熱の鉄でも押し付けられたかのように激しく跳ね上がった。


「ひっ!?」


彼女は悲鳴のような、短い呼吸を漏らすと、アドリアンの優しい手を振り払うようにして、後方へと飛び退いたのだ。

その瞳には、先ほどまでの悲しみや、後悔の色ではない、『何か』が浮かんでいた。


「え?」


シン、と。

幕舎の中が静寂に包まれる。

アドリアンも他の族長たちも、ナーシャの不可解な反応に言葉を失った。


「あっ……」


ナーシャは、はっと我に返った。

自分が今、何をしたのかを理解する。

幕舎の中にいる全ての者たちが自分不可解な行動を、困惑の表情で見つめている。

そして、目の前にはアドリアンが手を差し伸べたまま立ち尽くしていた。


──違う、違う、違う……!私は、そんなつもりじゃ……!


「ご、ごめん!私……!ち、違うの……!その、傷が急に痛んだだけで……!」


彼女は最後にアドリアンに向かって「ごめんなさい……」と、蚊の鳴くような声で謝罪することしかできなかった。


快活な彼女らしくない、姿。

だが、静寂を破ったのはやはりアドリアンであった。

幕舎全体を包み込む重く気まずい空気を、アドリアンはわざとらしく明るい声で打ち破った。


「やれやれ、ナーちゃん。君は本当に俺のことが好きだなぁ」

「……え?」

「だって、そうだろ?君の肩に、優しく手を置いただけなのにさ、あんなに可愛らしく飛び跳ねてくれるなんて。俺に触れられたのが、あまりにも嬉しすぎてどう反応していいか、分からなくなっちゃっただけなんだよな!いやぁ、俺も罪な男だ!」


突拍子もない、そしてどこまでも好意的な解釈。

アドリアンは、そう言うとナーシャに向かって悪戯っぽくウインクして見せた。

彼の全てを包み込むような優しい気遣いによって、幕舎の中の張り詰めていた空気は少しだけ和らぐのであった。


「そ、そう!そーなのよ!あは、あははは!」


ナーシャもまた、アドリアンの言葉に必死で乗っかった。

彼女は引き攣った、しかし快活に見せようとする苦笑いを浮かべながら、大げさに頭を振ってみせる。


「あのクソジジイの一撃を食らったせいで、頭がこんがらがっちゃったみたい!じゃないと、アンタみたいな人間を一瞬でも格好良く見えちゃうなんてこと、あるわけないんだから!」


必死な、しどろもどろなナーシャの言い訳。

だが次の瞬間には、それまで幕舎を支配していた凍りつくような気まずい空気が氷解した。


「がっはっは!そいつは重症だな、ナーシャ!後で、ボルドに頭の治療をしてもらえよ!」


イルデラが、腹を抱えて豪快に笑う。

他の族長たちもまた、「やれやれ」と口元に、呆れたような微かな笑みを浮かべていた。

そして最後に、獅子王レオニスが静かに確かな安堵の色を宿らせて、言葉をかけた。


「ナーシャよ。お前が、無事でいてくれてよかった。それが我らにとって、何よりの希望だ。……さて、長話はもうよそう。皆、明日に備えよ。今宵はゆっくりと傷を癒すがいい」


王の言葉を合図に、族長たちはそれぞれ自らの部隊の元へと戻っていく。

そして、ナーシャもまた誰にも何も告げることなく、一人静かに自らの幕舎の元へと歩みを進めていった。


「……」


そんな彼女の小さな背中をじっと見つめる二つの影があった。

英雄アドリアンと、軍師ガクシャである。


「アドリアン様……」

「ああ。分かってる」


アドリアンとガクシャ。

この二人だけには、分かっていた。

彼女が快活な笑顔と強気な言葉の裏で、必死に何かを隠しているということに。


なにせ常に傍らで戦い続けてきた、かけがえのない戦友であるのだ。

彼女の痛々しい、何かに怯えるような瞳。それに気付かない筈がなかった。


「やはり、セルペントスの仲間たちを失ってしまったのが、お辛いのでしょう……。……あぁ、僕が……僕があのような、指示を彼女に出さなければ…!」


ガクシャは両手でフードをぐしゃりと掻き抱くようにして、悔恨に満ちた声で呟いた。


彼女は運よく生き残った。

だが、心にどれほど大きな傷を負ってしまったことか。


ナーシャのどこか壊れてしまったかのような姿は、全て自分の責任なのだと、ガクシャは自分自身を責め続けていた。

落ち込まない方が、おかしい。そう思うしかなかったのだ。


自責の念に駆られる友の姿。

アドリアンはそんな彼の肩に優しく手を置いた。


「ガクシャ、君のせいじゃない。誰のせいでもないさ。……悲しいことだけど、戦場っていうのはいつだって俺たちのちっぽけな計算や願いを、容易く裏切ってくるものなんだ」


アドリアンの寂しげな言葉。それは彼が数多の戦場を駆け抜け、そして色々な経験をしたからこそ出た言葉だった。

それにガクシャは一度だけ強く頷いた。


頭では、分かっている。彼の言う通りなのだと。

そう……分かっては、いる。いるのだが……。

それでも、仲間が傷ついたその責を、自分以外の何かのせいにはできない。

それが、ガクシャという心優しき青年であった。


「でも、このままじゃナーちゃんが可哀そうだ。なんとかして、彼女を元気にさせてあげたいけど……」


アドリアンが唸りながら方法を考え始める。

その時、ガクシャは何かを思いついたかのように、顔を上げた。


「アドリアン様。でしたら、このようなことは如何でしょうか?もしかしたら、ほんの少しは彼女の励みになるかもしれません」


ガクシャの言葉にアドリアンは、「お?」と、瞳を興味深そうに見開く。

そしてガクシャは、アドリアンの耳元へと口を寄せ、彼の考えたとある「計画」を耳打ちするのであった。

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