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第百六十五話

薄暗い森。

ここは魔王軍と獣人軍が決戦を繰り広げる、広大な戦場の西端。

激しく蛇行する川を跨ぐようにして、この森は広がっていた。


獣人たちの軍師、ガクシャの命により、この森にはナーシャ率いるセルペントス族の精鋭たちが息を潜めて潜伏している。

来るべき時に、敵の側面を突くための重要な伏兵として。


──いや、いたと言うべきか。


「このような見え透いた場所に伏兵を置くとは……獣の知恵など、所詮はこの程度か」


森の静寂を破り、嗄れた老人の声が響き渡った。


その声の主は──魔大公ベゼルヴァーツ。

魔王の最も信頼厚き腹心にして、その知略と残酷非道さで数多の国を一夜にして地図から消し去ってきた魔族の英雄。

そして、この世界に生きる魔族以外の全ての者たちにとっての、大敵であった。


「かっ……は……!」


ベゼルヴァーツの片腕には、細い身体が力なく吊り下げられている。

艶やかな黒髪、そして虹色に輝く美しい蛇の尾──ナーシャだ。

彼女は喉を無慈悲に掴まれ、もはや抵抗する力も残っていないのかぐったりとしていた。


そして──その周囲に広がるのは、惨劇の跡。

伏兵として潜んでいたはずのセルペントスの精鋭たちが、無残な骸となって血だまりの中に散らばっている。

森は死の静寂に支配されていた。


(見誤った……!この化け物の、本当の強さを……!)


ナーシャの心に、血を吐くような後悔が込み上げる。


敵軍の総大将が、少数の供だけを連れて無防備に姿を現した。

それを千載一遇の好機と捉え、奇襲を決断したのだ。


ベゼルヴァーツの姿が、ただの老人に見えたから。

そんな油断が、心のどこかに巣食っていたから。


──だから、仕掛けてしまった。決して仕掛けてはならなかったのに。


そんな致命的な判断ミスが、かけがえのない仲間たちの命を無残に散らせてしまったのだ。


セルペントス族の十八番である、音も無く気配も無い神速の奇襲。

仲間たちは完璧な連携で、四方八方から同時にベゼルヴァーツへと襲い掛かったはずだった。


しかし、ベゼルヴァーツは振り向きすらしなかった。

ただ、億劫そうに腕を一振りしただけ。

たったそれだけで、周囲から迸った闇の奔流がセルペントスの精鋭たちを赤子でも捻るかのように容易く飲み込み、命を跡形もなく消し去ったのだ。


「ふむ」


ベゼルヴァーツは冷徹な瞳で、ナーシャの全身を値踏みでもするかのように見つめていたが、不意に眉を訝しげに吊り上げた。


「──なるほど。余の闇魔法をあれほどの至近距離で受けながら、貴様が生きている理由が分かったわ」


ベゼルヴァーツの鋭い視線の先。

そこには、ナーシャの額に淡い光となって存在を主張する一つの小さな星の印が刻まれていた。

それはアドリアンが彼女に、そして仲間たちに戯れのように、願いを込めてかけた『おまじない』の証。


しかし、次の瞬間。

淡い光を放っていた星の印にと亀裂が走った。

そして、ガラスが砕け散るかのような儚い音を立てて、光の靄となって虚空へと消え去ってしまった。


「ぁ……」


ナーシャは、全てを悟った。

本来、自分は仲間たちと共に最初の一撃で即死していたのだ。

アドリアンが悪戯のようにかけてくれた優しい『おまじない』が、ベゼルヴァーツの邪悪な力から自分の命をたった一度だけ守ってくれたのだと。


だが、生き延びたとはいえ目の前にはまだ絶対的な『死』が悠然と佇んでいる。


ナーシャは確信していた。

この後、自分もまた仲間たちの後を追うことになるのだ、と。


だが——。

決して、ただで殺されてなどやるものか。


「……」


ナーシャの瞳から恐怖の色が、ふっと消えた。

代わりに宿ったのは、燃え盛る炎のような決死の覚悟の光。


(私がここで、こいつに一太刀でも浴びせることができたなら。せめて、指の一本でも切り落とすことができたなら。後のアドリアンの戦いの助けになるはず——)


それが、今の彼女にできる唯一にして最後の抵抗。

ナーシャは、もはや動かぬはずの身体に最後の生命力を振り絞る。

軋む骨も、千切れそうな筋肉も無視して残された全ての力を一撃に込めようとしていた。


だが、ベゼルヴァーツはそんなナーシャの決死の覚悟を、愛しい子供の癇癪でも見るかのように嘲笑う。


「忌々しい星の涙の力……。どうやら貴様は、アドリアンにとってそれなりに『お気に入り』のようだな」


そして、ベゼルヴァーツは気味の悪いほど慈愛に満ちた笑みを浮かべる。

それは、これから潰す虫を愛でるかのような歪んだ愉悦に満ちた表情だった。


「ならば」


ベゼルヴァーツが空いているもう片方の腕を、ゆっくりと持ち上げる。

その指先が、ナーシャへと向けられた。


「──アドリアンから祝福を受けたお前に、余からも『祝福』を授けてやろう」

「!?」


ベゼルヴァーツの指先から、黒い霧のような禍々しい魔力が溢れ出す。

それは意思を持った生き物のようにナーシャの身体に纏わりつき、抵抗する術を持たない彼女の額から、心の中へとゆっくりと、しかし確実に侵食していく。


「ぁ……あ……」


ナーシャの意識が、急速に塗り替えられていく。

悍ましい闇の魔力が、彼女の精神を、魂そのものを弄んでいく。


目の前の光景がぐにゃりと歪み、仲間たちの骸も血に濡れた森も、全てが黒一色に染まり溶けていく。

やがて、無限の暗闇の中で一つの映像が浮かび上がった。




♢   ♢   ♢




それは、未来の光景。

起こりうるはずのない、しかし鮮明な『悪夢』。



──僅かな不安は、土の底に埋もれた種子。



いつだったか、アドリアンとガクシャと三人で話をしたことがあった。

まだ、こんな地獄が訪れる前の、穏やかな夜のこと……。


『もし、この大草原を見捨ててしまったら……私たちは……』

『我々に愛想を尽かしたりして、貴方様と対峙することになったら』


それは純粋な信頼の裏返しとして、心の奥底に埋めておいた、ほんの僅かな不安の種。

信じているからこそ、万が一を想像してしまったただそれだけの弱さ。

決して芽吹くはずのなかった種子を、ベゼルヴァーツの邪悪な魔力が、無理やり掘り起こしていく──。


(なに……なんなの……?この、景色……?)


次にナーシャの視界に広がったのは、見慣れた故郷──フェルシル大草原だった。

だが、その光景はナーシャの知る美しい緑の大地ではない。


(!?)


空は血のように赤く染まり、大地は黒く焼け爛れ、至る所で黒煙が上がっている。

それは、何者かによって蹂躙された後の、地獄。


そして、その中心に一人の男が立っていた。

蒼き星の輝きをその身に纏う、黒髪の英雄。


──アドリアンだ。


(アド……リアン……?)


その時だった。

英雄の振るう『星涙剣』が、青い軌跡を描く。

その一閃が薙ぎ払ったのは、魔族ではない。


「ぐ……ぁ……!」


──必死に逃げ惑う、狼や、熊の獣人たちだった。


(なんで……?なんで、アドリアンがみんなを殺しているの……?)


英雄の放つ無慈悲な魔法が、かつて彼が命を懸けて守ったはずの同胞たちを、平等に塵へと変えていく。


なぜ。どうして。

その問いは、声にならない。

ただ、目の前の信じがたい光景が、ナーシャの瞳に焼き付いていく。



──水を与えられれば、それは疑念という毒草に育つ。



アドリアンは、人間だ。

所詮は、我らとは違う種族。

あれほどの力を持つ英雄が、いつまでも我ら獣人の味方である保証など、どこにもないではないか。


ありえるはずのない悪夢の光景が、掘り起こされたばかりの不安の種に、絶望という名の水を与える。

芽吹くはずのなかった種は、どす黒い養分を吸って、ねじくれ曲がりながら急速に育っていく。


そうして地獄と化した大草原で、アドリアンは最後の獣人を斬り伏せた。

そして、ゆっくりとこちらへ振り向く。

その顔にはナーシャがよく知る、優しい笑みが浮かんでいた。


しかし、その瞳に宿る色は全くの別物。

仲間たちに向ける温かい光ではなく、壊れた玩具を見るかのような冷たい光。


「やあ、ナーちゃん。君も、俺が片付けてあげるよ」


その声も、姿も、紛れもなくアドリアンなのに。

ナーシャの魂が、本能が、叫んでいる。


──あれは、いつか自分たちが倒さなければならない、本当の『災厄』だ、と。


英雄の姿をした『災厄』が、ゆっくりと『星涙剣』を振り上げる。

もう、逃げることも、声を出すこともできない。

絶望的な光景が、永遠に引き延ばされた時間の中を、スローモーションのように進んでいく。



──やがて、毒草に一つの不吉な蕾が生まれた。



信じていた。

信じている。

信じたい。


その想いとは裏腹に心に芽吹いた毒草は、もう取り返しがつかないほどに根を張り巡らせてしまった。


信じたいという気持ちが、万が一裏切られた時の恐怖を増幅させる。

英雄の力が強ければ強いほど、彼が敵になった時の絶望が心を蝕んでいく。

アドリアンを想う心が強ければ強いほど、彼に殺される未来が、魂を根元から腐らせていく。


そして、ついに。


(──どうして?)



蕾は音を立てて弾けるように開き、ナーシャの心の内側で絶望という名の醜い花を満開に咲かせた──。




♢   ♢   ♢




ナーシャの精神を焼き尽くしていた残酷な幻影の景色が、陽炎のように消え去っていく。

現実の世界。

薄暗く、そして血の匂いが立ち込める静寂の森へと、彼女の意識は無理やり引き戻された。


「あ……あ……」


ベゼルヴァーツは腕の中のナーシャを、壊れた人形でも捨てるかのように地面へと無造作に放り投げる。

ナーシャの瞳からは涙がとめどなく溢れ、焦点はどこも結んでいない。心が砕け散ってしまった者の、虚ろな瞳だった。


そんな無残な姿を見下ろし、ベゼルヴァーツは口元に満足げな笑みを浮かべた。


「なんと脆く、愛おしい心であることか。口先では『信頼』などという薄っぺらな言葉を信じながら、魂の奥底では自らが理解できぬ絶対的な『力』を恐れている。それこそが弱者の本質よ」


だが、不意に。

ベゼルヴァーツは興味を失ったかのように嘲笑を止めると、ふと何もない空を見上げた。


「……ふむ。余興の時間も終わり、か」


その視線の先に何が見えているのか。

ただ、彼の口調から察するに、何者かがこちらへ向かっているようだった。


「まぁよい——ここは悪役らしく、大人しく幕引きとしよう。次の幕の主役は、私ではないのだから」


ベゼルヴァーツはその身を森の闇に溶け込ませるかのように、音もなく完全に消え去った。

後に残されたのは、魔族とセルペントスの戦士たちの無残な亡骸の中心で、虚ろに涙を流しひれ伏す、一人の心壊れた蛇の少女の姿だけ。


そんな絶望的な静寂を切り裂いたのは、一つの蒼い閃光であった。

森の木々を薙ぎ倒し大地を抉るほどの凄まじい速度で、英雄がその場へと駆けつける。


「──ナーシャ!!」


アドリアンは見た。

血の海の中に無残な骸となって転がるセルペントスの仲間たち。

そして、その中心で魂が抜け落ちたかのように虚ろに涙を流す、ナーシャの姿を。

アドリアンの瞳が驚愕に、そして後悔の色に見開かれた。


「ナーシャ……!大丈夫か!」


彼は震える腕で華奢な身体を強く抱きしめる。

次の瞬間、胸が確かに上下していることを確認すると、アドリアンは心の底から安堵のため息を吐いた。


「アド……リアン……」


腕の中で、ナーシャがそう呟く。

アドリアンは彼女を安心させるように、できる限り優しく答えた。


「遅くなって、ごめんよ、ナーちゃん」


アドリアンは改めて周囲を見渡す。


(一体ここで何があったんだ……?ベゼルヴァーツの気配もあるから、奴は確かにここにいたみたいだけど……)


そうして、思考の海に耽るアドリアンは気づかなかった。

腕の中のナーシャが、虚ろな瞳で、を流しながら、絶望に満ちた声で呟いていたことに。


「……どうして……どうして、みんなを……殺すの……」


その小さな問いかけは、アドリアンの耳に届くことはついになかった。

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