「ア……アドリアン!おのれ、このわたくしの美貌に惹かれて、湧いて出たのね!この下賤の英雄が!」
鍔迫り合いの至近距離で、グラシエラは顔を屈辱と怒りに歪ませながら、叫び返す。
「あ、ごめん。実は俺、厚化粧の女性はあまり好きじゃないんだ。すっぴんを見せてくれたら、惚れてあげるかもしれないけど」
「お黙りなさい!」
グラシエラの絶叫と共に、二人の身体が弾かれたように大きく距離を取った。
そして彼女は勝ち誇ったように、高らかに笑い声を上げた。
「うふふふ!馬鹿な男!わたくしの軍勢の真ん中に、たった一人で飛び込んでくるだなんて、自殺行為も甚だしいわ!さぁ、お前たち!忌々しいアドリアンを、殺してしまいなさい!」
魔侯爵の号令に応え、周囲に布陣していた魔族の兵士たちが一斉にアドリアンへと、殺意の刃を向ける。
アドリアンは自分を囲むおびただしい数の魔族の兵士たちを、楽しげに見渡した。
「おっと、これはいけない。君の氷の仮面の下にあるであろう、可愛い『すっぴん』が見たくて、夢中で突撃しちゃったんだけど……どうやら、君の熱烈なファンクラブの集会に、乱入しちゃったみたいだね」
アドリアンはそう言うと、今度は鬼ごっこでも楽しむかのように、軽やかに後退し始めた。
その背中に向かって、グラシエラは屈辱に震える声を必死に絞り出す。
「ま、待ちなさい……!逃げるの、アドリアン!?」
「逃げる?まさか!後ろに向かって進んでるだけなんだな、これが」
アドリアンは振り返りざま、悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女の神経を逆撫でする言葉を次々と投げかけていく。
「それにしても大した魔力だねぇ、魔侯爵様!川を丸ごと凍らせるなんて!氷の分厚さ、君の顔に塗りたくった、お化粧の分厚さといい勝負なんじゃないかい?」
「君って氷みたいに性格もずいぶんと冷え切ってるみたいだけど……もしかして俺みたいな超絶イケメン英雄を前にして、緊張で身体がカチコチに固まっちゃってるだけなのかな?だとしたら、可愛いところもあるな!」
「まぁ、あれだけ分厚い氷の壁を張らなきゃ、俺からの愛の突撃は防げなかったってことだろうからね!その判断は、実に正しい!この英雄様が、褒めてつかわす!」
怒涛の軽口の嵐。
ついに、魔侯爵グラシエラの理性がぷつりと音を立てて、切れた。
「お……おのれ……おのれぇぇぇーーーーっ!!!!」
彼女の美しい顔は怒りで真っ赤に染まり、瞳には純粋な殺意の炎だけが燃え盛っている。
「殺せ!殺せぇぇぇ!!あの減らず口の、クソ野郎を、八つ裂きにしてやれ!!全軍、奴を追え!絶対に逃がすな!!!」
魔侯爵の金切り声に等しい絶叫が戦場に響き渡る。
号令を受け、魔王軍の兵士たちは一斉に、一人の英雄を怒りの形相で追いかけ始めたのであった。
その無謀な光景を、対岸にいる獣人の兵士たちは、固唾をのんで見守ることしかできなかった。
今すぐ、たった一人で敵陣に突っ込んでいった英雄の元へと駆けつけ、援護したい。
しかし彼らに下された軍師からの命令は、ただ一つ。
「待機」である。
その命令が、彼らの足を大地に縫い付けていた。
「……あの、馬鹿野郎……!なにやってんだ……!?」
最前線でイルデラが巨大な戦斧を握りしめ、悔しげに、だが心配そうに吐き捨てる。
「ふん……なにを考えているのやら。まぁ、心配するだけ無駄だかな」
ヴォルガルドの陣では、グレイファングが隻眼を細めていた。
だが、その視線は片時もアドリアンの姿から離さない。
「ふむ。あれは……」
上空を舞うゼファーだけが、英雄の真の意図に気づいていた。
アドリアンはグラシエラが率いる軍勢を、その身一つを囮として引き連れながら、一直線に凍てついた川のこちら側へと渡り始めたのだ。
「おーっと、グラシエラちゃん!そんなにムキになって、全力で走っちゃっていいのか?丹精込めて塗りたくった氷の厚化粧が、熱気で溶けちゃうじゃないか!たいへんだぁ!君が、頑なに隠し続けてきた、本当の『すっぴん』が、みんなの目に晒されちゃうよ!」
「──殺゛し゛て゛や゛る゛!!」
もはやグラシエラの声は、高貴な魔侯爵のものではなかった。自らのプライドをズタズタに引き裂かれた、一匹の雌の獣の狂気に満ちた絶叫。
その凄まじい怒気に、彼女を追う魔族の兵士たちですら恐怖に怯え、僅かに距離を取る始末だ。
そんな混沌とした戦場を、魔王軍の別の陣から、苦々しげに見つめる者がいた。
「グラシエラめ……!アドリアンの見え透いた挑発に、まんまと乗せられおって!単独で突出するなど、愚の骨頂!」
筋骨隆々とした、屈強な肉体を誇る魔族の将軍——魔侯爵ゼルディオスが巨大な拳を、強く握りしめた。
彼の眼下には、一隊だけが無様に突出して、アドリアンを追いかけるグラシエラの軍勢の姿があった。
「ベゼルヴァーツ様からは決して深追いするなと、釘を刺されておったというのに!あの女、大公殿下の御命令に背くか!」
ゼルディオスの冷徹な視界の先で、アドリアンと彼を追うグラシエラの軍勢が、凍てついた川を渡りきろうとしていた。
『無謀』で、そして『危険』な光景。
その時、彼の元へ一人の副官が、血相を変えて駆け寄ってきた。
「ゼルディオス様!グラシエラ様が軍団ごと、突出しておられます!このままでは我が軍の陣形が、分断されてしまいます……!」
「分かっておるわ!」
ゼルディオスは焦燥に満ちた報告を、一喝で遮る。
彼は巨大な拳を力強く天へと掲げ、自らの軍勢に新たな命令を下した。
「全軍に通達!これより、グラシエラの軍団を追う!だが、決して氷の川を渡るな!川のこちら側で、陣形を整えよ!」
「し、しかし川を渡らねば、グラシエラ様への直接の援護が……!」
「二度は言わん!さぁ、行け!」
ゼルディオスの絶対的な命令に、副官は一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに「ははっ!」と力強く応え、伝令へと走る。
やがてゼルディオスが率いる屈強な魔族の軍勢が、グラシエラの怒りに満ちた猛進とは対照的に、冷静に歩みを進め始めた。
そしてついに、アドリアンたちは広大な氷の川を、完全に渡りきった。
アドリアンはここが目的地だとでも言うように、足を止めた。
「ふぅ……ここら辺でいいか」
それに伴い、彼の背後で殺気と怒りを撒き散らしていたグラシエラと、配下の軍勢たちの足も自然と止まる。
「あら?どうしたのかしら、アドリアン。逃げるのに疲れて、観念したのかしら?」
グラシエラの氷のように冷たい愉悦に満ちた笑みが、周囲の大気を再び凍てつかせる。
そんな彼女の姿を見て、アドリアンはにこやかに言った。
「いやぁ、悪いんだけどさ、俺ってやつは『諦める』っていう言葉を生まれてこの方、一度も使ったことがなくてね。まぁ、君はそろそろ諦めた方がいいかもしれないけど」
「……はぁ?」
アドリアンの不遜な言葉に、グラシエラは初めて、訝しげに周囲を見渡した。
そして、気付く。
いつの間にか自分たちが凍てついた川を完全に渡りきり、獣人軍が今か今かと待ち構えている陣形の目前に来てしまっているということに。
その時、彼女の配下の一人が血相を変えて叫んだ。
「グ、グラシエラ様!我々だけが突出して、川を渡ってしまっております!これは我らを誘い出すための罠……!」
だが、その進言が最後まで紡がれることはなかった。
「──かひゅ!?」
グラシエラがうるさい羽虫でも払うかのように、白く美しい手を、すっとかざした。
ただ、それだけ。
それだけで、進言した魔族の兵士の身体が、急速に青白い氷へと姿を変えていく。
そして最後に、パリンと。
儚い音を立てて、身体は粉々に砕け散り、キラキラと輝く氷の塵が風に乗って、静かに消えていく……。
「ふぅ」
その中心で、魔侯爵グラシエラは、汚れたものでも払ったかのように手を払った。
そして妖艶な身体を捩らせながら、歌うように言った。
「──わたくし、物事の真理を理解できない、頭の悪い子って、大嫌いなのよ」
彼女は氷のように冷たい唇に、笑みを浮かべる。
「罠?本当に、馬鹿な子。この川は既に、わたくしが完全に凍てつかせたのよ?つまり、あれは川ではない。我らが勝利のために踏みしめるべき、ただ『大地』と同じこと……。そうでしょう?」
彼女の手のひらに、きらきらと輝く美しい氷の結晶が顕現する。自らが持つ絶対的な力に、彼女は恍惚とした表情を浮かべた。
そして、ちらりと自軍の後方を確認すると、そこには彼女の予想通りゼルディオスの軍勢が、ゆっくりと進軍してきているのが見えた。
「ほら。あの慎重なゼルディオスですら、わたくしの後を追ってきているわ。そう、これは罠ではない。わたくしが、誰よりも早く勝利への『先陣』を切っただけのこと。……そんな、単純なことも分からないお馬鹿さんは、死んで……と・う・ぜ・ん、でしょう?」
その様子を見ていたアドリアンは、こめかみに指を当てながら呆れたように言った。
「うーん。流石は魔侯爵様だ、実にお見事。最初から計画通りでした、みたいに言い張るその厚顔無恥さ、まさに天下一品。あ、もちろん、褒めてるんじゃないよ?つまり……君は、とーっても、お馬鹿さんだねって、言ってるんだ」
「……なっ……なんですってぇ!?」
アドリアンの直接的な侮辱に、グラシエラの顔が再び怒りで真っ赤に染まる。
だが、アドリアンは彼女の怒りなど柳に風と受け流し、言った。
「少なくとも、さっき君が『ノロマなやつら』って言ってたゼルディオスの方が、よっぽど君よりお利口さんだよ。──だって、ほら」
アドリアンはそう言うと、パチンと。
指を、軽やかに鳴らした。
「!?」
その瞬間だった。
グラシエラが、絶大な魔力で凍てつかせたはずの巨大な氷の川。その表面を、一本の黄金の炎の線が奔るように、端から端まで一瞬で駆け抜けた。
そして、次の瞬間——。
ゴォッ!!という、大地そのものが悲鳴を上げるかのような、凄まじい轟音。
「なっ……」
先ほどまで大地と見紛うほどに分厚く頑強だったはずの氷の川が、いとも容易く粉々に溶けていく。
アドリアンの魔法により、川全体が灼熱の炎に包まれ、氷の全てを一瞬にして溶かし尽くしてしまったのだ。
氷が解けたことによって川は激しい濁流となって、轟々と流れを再開する。
それはもはや、退路ではない。渡ることのできない、死の境界線だ。
「……」
グラシエラは自信の象徴であったはずの氷を、いとも容易く打ち破られたという事実に口を開け、間抜けな顔を晒すことしかできない。
そんな彼女の無防備な表情を見て、アドリアンはにっこりと、この日一番の優しい笑みを浮かべて言った。
「そう!キミの、その顔!とっても素敵だよ!それが見たかったんだよなぁ~」
アドリアンの軽口が静寂の戦場に響く中、獣人たちはその光景を、息を呑んで見守っていた。
そして、獣人たちの軍の合間を、またしても寸分の狂いもなく予測していたかのように、一騎の伝令兵が駆け抜けていった。
「軍師様より伝令!敵将、魔侯爵グラシエラは、完全に孤立した!今こそ、敵将の首を獲る時!——全軍、攻撃を開始せよ!」
勝利を確信させる、力強い声。
それを聞いた獣人たちが、それまでの沈黙が嘘であったかのように、大地を……いや、世界そのものを震わせるほどの、雄叫びを上げた。
そして、我先にと孤立した魔侯爵グラシエラの軍勢へと、牙と爪を剥き出しにして殺到し始める。
「……けっ。あの小僧、一体どこまで先を読んでやがんだ、全く」
「……我らが軍師殿は、未来でも視てるのかね」
イルデラとグレイファングは、若き軍師の神がかった采配に戦慄しながらも、口元には確かな笑みを浮かべていた。
そして、彼らも自らが率いる配下たちに、号令を下す。
「野郎ども、続け!あの女の首を、アドリアンより先に獲るぞ!」
「者ども、行くぞ!英雄に続け!グラシエラだけは絶対に逃がすなよ!」
怒涛の如く殺到する、獣人たちの軍勢。
その凄まじい生命の奔流を前にして、先ほどまで絶対的な強者として君臨していたはずの魔侯爵グラシエラの顔から、ついに血の気が引いた。
「え……ちょ、お待ちなさい……!」
それをアドリアンは、満足げな笑みを浮かべて見ていた
そして彼は、声を高らかに戦場全体へと響かせる。
「さぁ皆!彼女に見せてあげよう!大草原に生きる、か弱き命たちが起こすささやかで、とびっきりの……『反撃』という名の劇の始まりを!」
英雄の号令が、反撃の狼煙となった。
獣人たちの怒涛の猛攻が、孤立したグラシエラの軍勢へと襲い掛かる。
アドリアンもまた戦いの中心で楽しげに剣を振るい、勝利を確信していた。
──まさに、その時だった。
ズキン、と。
アドリアンの身体の奥で、何かが強く脈打った。
「!?」
アドリアンの動きが、ぴたりと止まる。
(今のは……)
それは、遥か彼方にいるはずのナーシャに施した守護の「おまじない」が今、強制的に発動し、そして砕け散ったことを示す明確な衝撃。
アドリアンの視線が、ナーシャがいるはずの遥か彼方へと向けられる。
戦場の喧騒の中、アドリアンの唇から小さな呟きが漏れた。
「──ナーシャ?」