目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第百六十三話

大草原を南北に分かつ、巨大な河。

その両岸に、二つの巨大な軍勢が互いに牙を剥き出しにして、睨み合っていた。


片側には、大草原の全ての部族が誇りを賭けて集結した、獣人たちの連合軍。

リガルオンの黄金の旗の下、狼が、犀が、豹が、熊が、鷲たちが……種族の垣根を越えて、一つの巨大な「群れ」となり、大地を踏みしめている。


対岸には、大地を黒く埋め尽くさんばかりの魔王軍。

魔族たちが禍々しい武器を手に、一糸乱れぬ冷徹な陣形を組んでいる。彼らの身から放たれる淀んだ濃密な魔力は、大気そのものを歪ませるほどであった。


風が二つの軍勢の間を、重く吹き抜けていった。

大草原の運命を決する戦いが、始まろうとしていた。




♢   ♢   ♢




獣人連合軍の最前線。

そこに布陣するのは、悠然と佇むリノケロス族の重装歩兵部隊。


その中で、ひときわ巨大な影があった。リノケロス族の女族長、イルデラである。

美しい顔立ちとは裏腹に、その身体は幾多の戦場を駆け巡り鍛え上げられた、屈強な筋肉の鎧に覆われている。

イルデラは戦斧を地面に突き立てると、対岸に広がる魔王軍の禍々しい威容を、獰猛な瞳で睨みつけた。


「……けっ、とんでもねぇ数の虫けらが、うじゃうじゃといやがる」


唇から漏れたのは、恐怖ではない。

強大な敵と、今まさに命を賭して戦えることへの、戦士としての歓喜の言葉。

その身は武者震いに、わなわなと震えていた。


「おいおい族長。もしかして、ビビってんのか?」


隣にいた、壮年のリノケロスの兵士が、悪戯っぽく軽口を叩く。

その言葉に、イルデラは豪快に笑い飛ばした。


「馬鹿野郎、嬉しいんだよ。てめえらも、そうだろ?」


楽しげな、族長の言葉。

それを聞いた兵士たちもまた、心からの笑みを浮かべた。


「ははっ、違いねぇ!」

「これだけの祭りだ!楽しまなきゃ、損ってもんでさぁ!」


彼らにとって戦場とは、己が魂を最も輝かせることができる、唯一の場所なのだ。

そんなリノケロスの両翼には、同じく精強なる二つの軍勢が牙を研いでいた。


右翼に布陣するのは、グレイファング率いるヴォルガルドの狼たち。

彼らはリノケロスのような、派手な雄叫びを上げることはない。銀色の毛皮を風になびかせ、一糸乱れぬ完璧な陣形を保ち続けている。


左翼には、ボルドが率いるウルグリッドの熊の獣人たちが佇んでいた。

山のような巨躯は、ただそこにいるだけで絶対的な安心感を味方に与える最強の壁だ。


さらに、遥か上空。

ゼファーが率いるアクィラントの鷲の軍勢が、巨大な翼を広げ円を描くように、舞っている。

彼らはこの軍の「目」となり、戦場の全てを鋭い瞳で見下ろし、敵のいかなる些細な動きも見逃しはしない。


大地には牙と爪。そして天空には、全てを見通す翼。


そして、イルデラたち全ての獣人たちの背後——本陣に、その軍勢は静かに布陣していた。

リガルオンの王、レオニスが直々に率いる、獅子王の親衛隊。

その兵士たちは、末端の一兵卒に至るまで『大戦士』の称号を持つ者たち。正真正銘、この大草原においての最強の軍団である。


「はは、これだけの面子が揃ってりゃあ、腕が鳴らねえ方がおかしいってもんよな」


イルデラは背後に控える、頼もしい王の軍勢をちらりと一瞥すると、満足げにそう呟いた。

まさに、その時であった。

一騎の馬の獣人である伝令兵が、砂塵を巻き上げながら最前線へと駆け込んできた。


「全軍に通達!軍師様より、伝令!『この戦、川を先に渡った方が負ける!敵の魔法砲撃に警戒しつつ、奴らが川を渡り始めたところを、全力で迎え撃て!』以上である!」


両軍を隔てる川。その川幅は、決して広くはない。

しかし、この戦場において両軍を隔てる、絶対的な境界線であった。

遮蔽物のないこの平原で渡河を開始するということは、敵の魔法や弓矢の前に、その身を無防備に晒すということに他ならない。それは自殺行為に等しい。

イルデラはその性を、嫌というほど理解していた。彼女は血気盛んな戦士ではあるが、決して無謀なだけの愚将ではない。


「まぁそうだろうな。……おい、てめえら!聞いたな!一歩でも先に川に足を踏み入れた奴は、アタイが斧で脳天をカチ割ってやるから、そう思え!」


族長の獰猛な檄に、リノケロスの兵士たちは、「応!」という、力強い雄叫びで応える。


──その時だった。


魔王軍の陣営から、それまでとは比較にならない膨大な魔力が、放たれた。

それは大気そのものを凍てつかせ、肌を刺すような絶対零度の冷気。


「な、なんだぁ……!この寒気は……!」


最前線にいたイルデラが、思わず巨躯を震わせる。

身に纏った鋼鉄の鎧が、ぎしりと悲鳴を上げた。


「おい……あれを見ろ!」


そして、獣人たちが信じられないものを見るかのように、目を見開いた。


目の前を流れていたはずの川が——凍っていく。


川岸から急速に、そして壮絶に。

水面は一瞬にしてその流れを止め、分厚い禍々しいほどの輝きを放つ氷の大地へと、姿を変えてしまったのだ。


「か、川が……凍った……!?」

「馬鹿な!こんな、馬鹿げたことが……!」


自然の理そのものを、いとも容易く捻じ曲げるほどの絶大な魔法。

それをたった一瞬で行使できる存在など、魔族の中でもほんの一握り。

所謂『爵位』持ちの、高位の魔族──。


そうして、獣人たちが規格外の力の顕現に呆然と立ち尽くす中。


「うふふふふ……!どう?薄汚い獣の皆さん。わたくしからの、ささやかなご挨拶は、お気に召したかしら?」


対岸の魔王軍。その最前線。

そこに立っていたのは、一体の女性の魔族であった。

氷のように冷たく、美しい顔立ち。その額からは、対となる優雅な曲線を描く、白銀の角が生えている。


彼女こそ、魔王軍の将軍の一人——魔侯爵グラシエラ。

侯爵位……それは、魔王軍の中でも極めて強大な力と、広大な領地と軍勢を持つ高位の魔族であることの証。


「……くそっ!あの女の仕業か!」


イルデラは対岸で高笑いを上げるグラシエラの姿を見て、歯を音を立てて歪ませた。

今回の戦では、大将であるベゼルヴァーツの他にも、多数の高位爵位持ちの将軍が参戦しているという情報は得ていた。

だが、これほどの規格外の化け物がこうもあっさり先陣を切るということは、あのレベルの魔族が何人もいるということ……。


──魔王軍は本気だ。


本気で、この戦いで大草原を完全に叩き潰すつもりなのだと、イルデラは肌で感じていた。


だが、それ以上に彼女を焦らせたのは別の事実であった。


川が凍った。


それはつまり、ガクシャの戦術や想定が覆されたということに他ならない。

もはや天然の防衛線は存在しない。こちらの動きが完全に整う前に、もし魔王軍が総攻撃を仕掛けてきたら——。


イルデラの脳裏に最悪の未来が過った、まさにその時であった。

すぐさま別の、新たな伝令兵が獣人たちの軍勢の間を駆け回りながら叫び始めたのだ。


「全軍に通達!軍師様よりの指示である!」


彼は凍りついた川を前に、動揺を隠せないでいた兵士たちの間を駆け回りながら叫び続ける。


「敵の奇策に動揺するな!この展開、想定内なり!各部隊は、持ち場を固く守り待機せよ!アドリアン様が、敵を我らの元へと『連れて』こられる、その時まで待機だ!」


落ち着き払った命令。

それを聞いたイルデラは、口元に苦笑とも感嘆ともつかぬ笑みを浮かべた。


(ガクシャはこうなることまで、読んでいたってワケかい。一体どれだけ頭が切れりゃ気が済むんだ、あいつは……)


イルデラはガクシャの底知れない知略に感心しながらも、一つ首を傾げた。


「しっかし……。『アドリアンが、敵を連れてくる』ってのは……一体、どういうこったぁ?」


イルデラの疑問が戦場に響き渡った、その時であった。


突如として、獣人軍の本陣——その後方から、一筋の閃光が地を這うようにして煌めいた。

それは、凄まじい速度で凍てついた川の上空を飛来し、対岸にいる魔王軍の最前線、その中心に立つ魔侯爵グラシエラに向かって一直線に伸びていく。


「ウふふ……ふふ、ふ……ぁ!?」


自らが作り出した氷の大地を前に、優雅に高笑いを上げていたグラシエラ。

だが、閃光の異常な速度とそこに込められた魔力を感じ取り、表情を初めて驚愕に歪ませた。

彼女は咄嗟に両腕を前へと突き出し、分厚い何重にも重なった氷の壁を、眼前に顕現させる。


しかし、遅い。


『ソレ』は氷壁を紙でも突き破るかのように容易く粉砕し、グラシエラの白い喉元へと、剣を振り下ろしていた——。


「ぐっ……ぎぎぎぎぃーーー!?」


並の魔族であれば、反応することすらできず、首を刎ねられていたであろう神速の一撃。

それをグラシエラは、咄嗟にその手に作り出した氷の大剣で、間一髪受け止めていた。

土埃と氷の結晶が舞う中、ようやく、閃光の主の姿が露わになった。


そこにいたのは——。


「おっと、流石は魔侯爵様!俺の一撃を止めるだなんてね。でも苦悶の声は高貴な侯爵って感じじゃないなぁ。どっちかっていうと……村娘って感じ?」


黒髪を風になびかせ、口元に不敵な笑みを浮かべるアドリアン。

大草原をただ一人、光の速さで駆け抜けてきた英雄の登場である。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?