英雄アドリアンと獅子王レオニス。
二つの巨大な光は、フェルシル大草原の獣人たちの士気を際限なく高めていく。
それまで魔王軍の圧倒的な物量の前に苦戦を強いられ、多くの同胞と土地を失い続けてきた獣人たち。
──だが、アドリアンとレオニスが率いる剛勇。その二つが合わさった時、獣人たちの軍勢は、まさに無敵の軍団へと姿を変えたのだ。
『臆するな!我々には獅子王と英雄が付いている!』
『死ぬのを恐れるな!我らが死んでも、必ずや英雄たちが世界を救ってくれる!犬死では、ない!』
彼らは次々と魔王軍を大草原から退け、そして一度は制圧された土地を一つ、また一つと取り戻していく。
二人の英雄によって、大草原はかつてないほどに、固い絆で一つに纏まろうとしていた。魔王がもたらした深い闇を、今こそ完全に跳ね返そうとしていた。
だが、魔王軍もそれを黙って見過ごすはずはなかった。
彼らはこれまでのどの戦いとも比較にならない、最大規模の軍勢を大草原へと差し向けたのである──。
魔王軍を率いるは、ベゼルヴァーツ。
今まで数多の国を闇に沈め、世界を絶望と恐怖に陥れた魔大公。
その強大な魔の手が、大草原に迫る──。
♢ ♢ ♢
「今回の敵はベゼルヴァーツが直々に率いる、魔王軍本隊。つまり、これまで我々が戦ってきたどの部隊とも違う、本当の『精鋭』です」
大草原に設けられた、巨大な軍議の幕舎。
ガクシャの緊張を孕んだ声が静かに響き渡る。
そこに集うは、大草原の王レオニスと英雄アドリアン。
そして、イルデラ、ゼファー、グレイファング、ボルド、ナーシャといった、大草原の趨勢を決する主要な部族の長たち。
彼らは皆、険しい表情で幕舎の中央に広げられた地図の一点を、黙って見つめていた。
「……奴らめ、ここで雌雄を決するつもりか」
最初に重い沈黙を破ったのは、グレイファングであった。
彼の隻眼が、地図の上に記された巨大な敵の陣営を示す駒を、鋭く睨みつける。
「ああ。魔王軍本隊は我らの目と鼻の先……川を挟んだ対岸に、布陣している」
レオニスが苦々しげに、言葉を引き継ぐ。
幕舎の外に出れば、肌で感じ取ることができるのだ。風に乗って運ばれてくる、おびただしい数の魔族が放つ禍々しい気配と、鉄の匂いを。
大草原の部族連合軍と魔王軍本隊。
二つの巨大な軍勢が今、一本の川を挟んで一触即発の睨み合いを続けている。
「ぐずぐずしていても、始まらねぇだろ!奴らが川を渡ってくる前に、こっちから仕掛けりゃいいじゃねぇか!?」
イルデラが血気盛んにそう叫ぶ。彼女はもはや我慢ならぬとばかりに、巨大な戦斧を床に叩きつけた。
「いや、それは愚策だ」
即座に冷静な声がそれを制した。アクィラントの王、ゼファーである。
「敵の狙いは、我らの主戦力であるアドリアンとレオニス様を前線におびき出すこと。下手に動けば、それこそ敵の思う壺よ。我らは川を渡らず、奴らを迎え撃つべきだ」
「何言ってんだゼファー!テメェ、目がいいのに状況が理解できねぇのか!?敵の数はアタイらの数を遥かに上回ってんだぞ!受けに回った瞬間、飲み込まれる!」
イルデラとゼファー、二人の族長の意見が幕舎の中で火花を散らす。
その一触即発の空気を、英雄──アドリアンが軽やかな声色で遮った。
「まぁまぁ二人とも。ここは我らが軍師さまのご意見を尊重しようじゃないか」
そんなアドリアンの言葉に、ガクシャが呼応する。
彼は静かに立ち上がると、族長たちの前に進み出て地図の一点を指し示した。
「敵将ベゼルヴァーツは慎重な魔族。そして何よりも、アドリアン様の力を誰よりも警戒しているはずです。故に、初日である今日は決して全軍を動かすことはありません」
「……ほう。では、奴らはどう動くと?」
グレイファングの問いに、ガクシャは淀みなく答える。
「恐らくは、初日は威力偵察を兼ねた散発的な小競り合いを仕掛けてくるでしょう。こちらの戦力、そしてアドリアン様とレオニス様の動きを正確に把握するために。……そして。全ての手札を把握した明日以降。本格的な攻撃を、数日にわたって仕掛けてくるはずです」
ガクシャの戦況分析に、幕舎内は再び静寂に包まれた。
獅子王レオニスは、静かに次の言葉を促す。
「その初日、我らはどう動くべきだ?」
王からの問いを受け、ガクシャは地図の上に次々と駒を配置していく。
「はい。我らは敵を翻弄するのに注力するのが最善……」
彼は敵本陣の正面に、力強い駒を置いた。
「最初は、本隊。正面から魔王軍の主力を引き付けていただきます。そして、その先陣を切っていただくのは……イルデラ様」
「けっ、面白え!任せとけ!」
イルデラは獰猛な笑みを浮かべる。
彼女の率いるリノケロス族の突撃力こそ、敵の注意を引き付ける最高の楔となるだろう。
「グレイファング様にはイルデラ様の側面から、ヴォルガルドの精鋭を率いて、敵陣を揺さぶっていただきます。そして、ボルド殿にはウルグリッドの剛健なる戦士たちを率い本隊の側面を守りに徹していただきたい。レオニス様は本隊中央に布陣し、私と共に指揮系統の指示をお願いいたします」
「分かった」とグレイファングが短く応え、「任せろぉ」とボルドが優しく微笑む。
レオニスもまた、無言で頷いた。
次にガクシャは地図の端……森の影へと、そっと駒を置いた。
「さらに伏兵部隊。これはナーシャ様に、セルペントスの精鋭だけを率いて指揮していただきます。完全に気配を消し、戦場の森に潜伏していただく。そして、本隊との戦いで敵の指揮官クラスが孤立したその瞬間を狙い、背後から掻き切っていただくのです」
「ふふん、任せといて!奇襲ならセルペントスの得意技だからね!」
そしてガクシャの指は、空と本隊の後方を指し示した。
「重要なのは制空権の確保。ゼファー様、貴方様にはアクィラントの全軍を率いて上空から戦場全体を俯瞰していただきます。敵の動きを逐一報告すると同時に、敵の空からの奇襲を完全に封じ込めていただきたい」
「承知した。我が翼に誓って、一匹の羽虫とて地上へは降ろさん」
ゼファーは静かに頷く。
「そして……最後に、アドリアン様。貴方は遊撃部隊として、如何なる事態にも対応できるように戦場を舞っていただきます。そう……囮として」
「やれやれ、俺が囮として使うなんて、英雄使いが荒い軍師さんだな。まぁでも、外ならぬガクシャの頼みだ、散々暴れてみようかな!」
アドリアンという最強の「矛」を囮とし、その裏でナーシャという「牙」を潜ませ、空と大地全てを他の族長たちが固める。そして、本陣を守るのはレオニス……。
若き軍師が描く布陣を前に、族長たちの顔に不安の色はなかった。
彼らは、ガクシャの頭脳を、そして二人の英雄と仲間たちの力を、心の底から信じているのだから。
そうして、族長たちは静かに頷くと、それぞれの部隊の準備に戻るため重々しく腰を上げた。
幕舎の中には、これから始まる大草原の運命を賭けた決戦を前にした、肌を刺すようなピリピリとした緊張感が満ちていた。
だが、そんな張り詰めた空気を一人の男の陽気な声が打ち破った。
「さぁさぁ、みんな!」
パンパン!と。
アドリアンがわざとらしく、大げさに手を叩いたのだ。
「そんな、この世の終わりみたいな怖ーい顔してたら、魔王軍の奴らも戦う前に怖気づいて、尻尾を巻いて逃げ出しちまうだろ?それじゃあ俺たちのせっかくの見せ場がなくなっちゃうじゃないか」
彼はそう言うと、くるりと芝居がかった仕草で身を翻す。
そして集まった全ての仲間たちの顔を、一人一人楽しげに見つめながら悪戯っぽく笑った。
「だから……ここは一つ戦いが始まる前に、偉大なる英雄様がみんなにとっておきの『勝利の願掛け』を授けてあげようじゃないか!」
場違いなアドリアンの提案に、ナーシャが心底呆れ果てたという顔で、怒ったように突っ込んだ。
「はぁ?おまじない?アンタね、こんな大事な時に、まだふざけてるの!?」
「まあまあ、いいからいいから!」
しかしアドリアンはナーシャの叱責など、どこ吹く風。
彼はその場にいる、屈強な族長たちを子供でもあやすかのように、無理やり輪になるように並ばせていく。
「さぁ、モフモフさんたち。英雄のおまじないを堪能してくれよ」
アドリアンはまず、一番文句を言いそうなリノケロス族長イルデラの前に立った。
「うーん……イルデラは立派な角がちょうど一番いい場所に鎮座してるからなぁ。よし、特別に角の隣に双子の星を描いてあげよう。これで、君の自慢の突進力も、二倍になる……ような気がしないでもないかも?」
「……けっ、くだらねえ!こんなもんで、魔王軍に勝てるかよ」
イルデラは憎まれ口を叩きながらも、その表情はどこかまんざらでもない。
彼女はぶっきらぼうに、しかし素直に額をアドリアンへと差し出すのであった。
次にアドリアンは、ウルグリッドの族長ボルドの元へと向かう。
山のような巨躯とは裏腹に、温厚で心優しいことで知られる彼は、アドリアンの子供じみた儀式を楽しそうに見守っていた。
「アドリアンの『願掛け』かぁ。これは、効きそうだなぁ。俺にも一つ、頼めるかぁ?」
「もちろんさ、ボルド。君には誰よりも大きく、そして力強い星を授けよう」
そして、アクィラントの王ゼファー。
彼は腕を組み静かにその光景を眺めていたが、アドリアンがその前に立つと、やれやれと一度だけ短くため息をついた。
「くだらんな。だが、これで、お前の気が済むのであれば、好きにしろ」
「はいはい、素直じゃない天空の王様にも幸運の星を一つ、と。君、なんか不運な顔してるからこれでちょうどよくなるかもね」
「……うるさい!」
次はヴォルガルドの族長、グレイファングの前に立った。
彼は、何も言わない。隻眼を静かに閉じ、アドリアンの儀式を甘んじて身に受けていた。
「……」
「……」
言葉はない。
だが無言のやり取りの中に、他の誰とも違う揺るぎない絆の存在が確かに見て取れた。
この男になら、何をされても構わない。グレイファングの隻眼は、そう語っている。
そうして、アドリアンはぷんすかと頬を膨らませて抵抗するナーシャへと視線を向けた。
「むきーっ!絶対に嫌よ!私は、アンタの、そんな子供だましみたいな遊びには、付き合わないんだから!」
「まぁそう言わないでさ」
アドリアンが、にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女の前へと歩み寄る。
顔を真っ赤にして、ぷいとそっぽを向くナーシャ。
そんな彼女の頑なな抵抗に、アドリアンは優しく、しかし有無を言わさぬ力で両肩をそっと掴んだ。
そしてアドリアンはナーシャの瞳を見つめながら、こう言ったのだ。
「ナーちゃん。君がいつも大事に手入れしている七色に輝く自慢の尻尾よりも、もっとずーっと綺麗で、おまけにとびっきりの幸運を運んでくる、特別な星のおまじないをあげよう──」
アドリアンはそう言うと、自らの指先に意識を集中させる。
すると、彼の指の先に、蒼く神々しい光が静かに灯った。
「……!」
ナーシャはその光に、思わず息を呑んだ。
怒りも、羞恥も、全て忘れ。
ただただ美しい星の輝きに、心を完全に奪われていた。
(……きれい……)
そんな、無防備な少女の顔を見て。
アドリアンは誰に聞かせるともなく、静かに祈るように呟いた。
大草原の霊脈に、そしてこの地に生きる全ての獣人に語りかけるように。
「大草原が君たちを愛する限り、霊脈の光はどんな邪悪な力からも守ってくれる──」
アドリアンは、ただその力をナーシャへと導くだけ。 そして光る指で、彼女の額に輝く星の印を、そっと刻む。
やがて我に返った彼女は、先ほどまでの動揺を隠すかのように顔をそむけた。
「……べ、別に嬉しくなんかないんだからね!アンタが無理やりやっただけなんだから!」
素直じゃない、しかし彼女らしい感謝の言葉。
それにアドリアンは優しく微笑むと、今度は幕舎の隅でやり取りを見つめていた、ガクシャへと向き直った。
「さぁ、待たせたねガクシャ。君にも、とびっきりの幸運が舞い込むように特別なおまじないを授けよう」
「ア、アドリアン様……私は戦いませんが……」
「いいからいいから。もしもの時の為さ」
アドリアンはガクシャの額にも、優しく星の印を刻んでいく。
彼は英雄からの祝福に、ただ純真な瞳を潤ませながら、深々と頭を下げるのであった。
こうしてアドリアンの気まぐれで温かい「おまじない」の儀式は幕を閉じた。
——かに、思われた。
「……アドリアンよ」
それまで腕を組み、黙ってその光景を王として見守っていた獅子王レオニス。
彼は静かに、だが少しだけ不満そうな声で言った。
「俺には、ないのか?」
拗ねた子供のようにも聞こえる、百獣の王からの問いかけ。
アドリアンは、にやり、と。この日一番の悪戯っぽい笑みを浮かべて、言い放った。
「え?ないよ。だって王様は、俺がいなくたって、どうせ一人で何でもできちゃうくらい強いじゃないか」
「おい!」
アドリアンのからかうような言葉に、獅子王が初めて王の威厳を忘れて、声を荒げる。
「やれやれ、英雄どのはこんな時でもいつも通りだな」
「ま、それがアイツらしい……ってことだな」
温かいやり取りに、それまで幕舎を支配していた決戦前の重苦しい空気は完全に消え失せた。
戦いは、すぐそこまで迫っている。
大草原の運命を賭けた最大で、そして最後の戦いが。
だが、この場にいるどの獣人の顔にも、不安の色はない。
──英雄がいる限り、我らに敗北はない。
揺るぎない絶対的な信頼の光だけが、全ての者の瞳に灯っていた。