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第百六十一話

「戦いが終わったら何がしたいか、とかさ!」


そう言って、にこりと笑う彼女の顔には一軍を率いる女王や戦場を駆ける戦士の面影はない。

目の前にいるかけがえのない親友たちとの、穏やかな時間を何よりも大切にしたいと願う、一人の優しい少女の表情がそこには浮かんでいる。


「な、何がしたい……ですか?」


唐突で平和な話題の転換に、生真面目な軍師は目をぱちくりとさせ、戸惑いの表情を浮かべる。

対してアドリアンはナーシャの意図を全て理解した上で、にっこりと実に楽しげな笑みを浮かべて言った。


「素晴らしい議題だね、ナーちゃん。流石は俺たちの誇るムードメーカーにして切り込み隊長殿だ。戦術会議よりもよっぽど建設的な話し合いができそうだ」

「そうでしょ、そうでしょ!アンタたち二人だけで話してると話が暗くなりすぎて、こっちまで気が滅入ってくるんだから!」


ナーシャはそう言うと、言葉の矛先を隣で静かにスープを飲んでいるガクシャへと向けた。


「アンタはどうなのよ。いっつも薄暗い幕舎で地図とにらめっこばっかりしてないで、何か他にやりたいこととかないわけ?」


彼は一瞬、きょとんとして、その純真な瞳をぱちくりとさせた。


「やりたい、こと……ですか」


少し照れながらも、やがて瞳に静かな光を宿らせて、自らの夢を語り始める……。


「──図書館」


ぽつりと漏らされた、聞き慣れない言葉。

アドリアンはなるほど、と頷いていたが、ナーシャはそれが一体なんなのか、すぐには分からなかった。

ガクシャはそんな二人の表情を見てはにかむように、しかし未来の夢を語る子供のようにキラキラと輝かせて、言葉を紡ぎ始めた。


「図書館というのは……本を、たくさんの本を集めて保管しておくための、大きな家のことです」

「本?」


ナーシャが、不思議そうに問い返す。


「はい。本です。──この大草原には、数えきれないほどの部族がいて、その一つ一つに独自のかけがえのない文化や歴史がありました。……ですが、この戦いで多くが失われてしまった。タウロス族の勇猛な戦いの歌も、フォクシアラ族の美しい舞いも、もう誰にも語り継がれることなく永遠に消えてしまったのかもしれない……」


彼の声には深い悲しみが滲んでいた。


「私はそれが悔しいのです。悲しいのです。だから私は、戦いが終わったら大草原の全ての知識を集めた巨大な図書館を建てたい。失われた部族の物語も、今を生きる我々の歴史も、全てが記されている、そんな図書館を。誰もがいつでも、その知識に触れることができる。そうすれば、たとえ肉体は滅びようとも彼らが生きた証は……誇りは未来永劫失われることはないはずだから」


それは軍師として多くの死を目の当たりにしてきた彼なりの願い。

そして、誰かに虐げられてきた彼だからこその願い……。


「……」


それを聞いたアドリアンは眩しいものを見るかのように目を細め、静かに心の底から呟いた。


「……素敵な夢だ。本当に、素晴らしい夢だね」


その声には、いつものような軽口や皮肉の色合いなど微塵も含まれていない。

友の気高い魂の輝きに対する、粋な敬意と愛情だけがそこにはあった。


対してナーシャはスープの最後の一滴をずずっと飲み干すと、からになった鍋を机に置き、いつもの調子を取り戻したかのように、にひひと悪戯っぽく笑った。


「アンタらしいわねー!なんていうか、こー……誇りとかそういうのを、いっちばん大事にしちゃう真面目な獣人って感じ?でも、素敵だと思うわ!」


どこか茶化すような、しかし瞳の奥にはガクシャの夢を決して馬鹿にするのではない、確かな親愛の情を浮かべながら、彼女はそう言ってけらけらと笑うのであった。

そうして、幕舎の中は穏やかな空気に包まれていた。

ガクシャはそんな空気を引き継ぐように、今度は若き女王へと瞳を向けた。


「ナーシャ様は、いかがです?戦いが終わりましたら、何をなさりたいですか?」


その問いに、待ってましたとばかりにナーシャの瞳が、きらん!と子供のように輝いた。

彼女は手に持っていた肉の串を指揮棒のように、ぶんぶんと振り回しながら、実に楽しそうに語り始める。


「私?私はねぇ……まず、大草原で一番……いや、違うわ!世界で一番美味しいお肉をこれ以上食べられないっていうくらい、お腹いっぱい食べるでしょ!」

「それから七日七晩、ずーっと誰にも起こされずに眠り続けてやるの!アドリアンが、朝っぱらから人の寝室に忍び込んでくる心配もないところでね!」

「あとは綺麗な宝石をそれこそ山ほど集めて、私の世界一美しい虹色の尻尾を、もっともっと目立つようにキラキラに飾ってやるんだから!どう?すごいでしょ!」


彼女は次から次へと、夢見る少女のように無邪気で可愛らしい願いの数々を目を輝かせながら羅列していく。

そんな彼女の姿を、ガクシャは困ったように優しい笑みで見守っている。

アドリアンもまた、ただ穏やかな笑みを浮かべていた。

──だが、不意に。しかし優しく問いかける。


「それで?ナーちゃん。たくさんある素敵な願いの中で、君がたった一つだけ……そう、本当に叶えたい『一番』の願いは、なんだい?」


全てを見透かすかのような、アドリアンの問いかけ。

先ほどまで喋り続けていたナーシャの言葉が止まった。

そして、その顔がみるみるうちに、熟した果実のように真っ赤に染まっていく。


「本当の、願い……」


彼女はしばらくの間うつむき、指先をもじもじとさせていたが、やがて意を決したように顔を上げた。

瞳には先ほどまでの快活な光ではなく、祈るような、切ない色が浮かんでいる。

そして、ぽつりと彼女の唇から、言葉が紡ぎ出される。


「──呪い。そう、呪いを解きたいの……」


その言葉に、アドリアンとガクシャは思わず顔を見合わせ、戸惑いながら彼女の言葉を繰り返した。


「呪い……?」


ナーシャはこくりと小さく頷く。

そして、どこか寂しげな自嘲するような笑みを浮かべて、二人に問いかけた。


「セルペントスの里って、おかしいと思わない?……あんなに、見つけ辛いだなんてさ」


魔王軍の斥候部隊ですら、逃げ帰った魔境の迷路。

そして、アドリアンでさえ初めて訪れた時は、入り口にたどり着くまで随分と骨が折れた……というか、ナーシャがいなかったら見つけることが出来なかっただろう。


(……確かにあれは明らかに、自然に出来た地形なんかじゃない。そもそも地形がいくら複雑でも俺が簡単に道に迷うはずがない……。そうか、だとすれば……)


アドリアンの疑問を、そして答えを確信させるかのように、ナーシャは言葉を続けた。


「あの里はね……。ずっと昔、私の遠いご先祖様が『呪い』をかけて、外の世界から、隠したの」


それは、セルペントスの一族が放った最大最強の秘術。

そして——悲しい『呪い』の魔法であった。


その術が発動した時、里の周囲の空間そのものが、ねじ曲げられる。

鬱蒼と生い茂る木々は意思を持った蛇のように絡み合わせ、天蓋となって空を覆い尽くす。大地は隆起し、沼はその深さを増し、道は無限に続くかのような出口のない迷路へと姿を変える。


ただの目くらましではない。里の存在そのものを世界の理から切り離し隠蔽する、一種の巨大な結界魔法。

いかなる斥候の目も、いかなる魔法の探知も、この呪いの前では意味をなさない。

そうして、里は絶対的な安全を手に入れた。


——だが、その代償は大きかった。


敵から見つからなくなるということは、同時に外の世界の全てからも、見放されるということ。

天を覆った木々の天蓋は、太陽の光を殆ど通さない。

里は常に薄暗い夜明け前のような黄昏に包まれ、暖かな陽光が里に、届かなくなってしまったのだ。


「だからね、私子供の頃、いっつも空を見上げてた。木々のほんの僅かな隙間から見える、青い空を」


アドリアンとガクシャは言葉もなく、ナーシャの次の言葉を待っていた。


「幼い頃は太陽が見たくてしょうがなかったわ。自分の尻尾を虹色に染めたりもした。そうすればきっと、空の上の太陽も私に気づいて光を当ててくれるかもしれないって……」


ナーシャはどこか遠くを見るような、夢見るような瞳で話を続ける。


「たまに木々の隙間から見える、空を自由に飛んでいる鳥の獣人たちが羨ましかった。なんであいつらは、あんなに簡単に全身で太陽の光を浴びることができるのに……私だけ、私たちだけ光を浴びることすら、許されないのかなって……」


そして彼女は、ふと視線を隣にいる英雄へと向ける。


「でもね、アドリアン。アンタと出会って初めて里の外に出て……太陽の光をまともに浴びた時──私、思ったの」


そして、ナーシャは初めて太陽の光を浴びた時のように大きく手を広げ、言った。


「──あぁ。なんて、気持ちいいんだろう。なんて、温かいんだろう!この光を……この温もりを私だけじゃなくて、里のみんなにも浴びさせてあげたい──って!」


純朴で、心優しい願い。

それを聞いたアドリアンは、はっと息を呑んだ。


(そうか……そう、だったのか……)


彼の脳裏に、これまでのナーシャの不可解だった行動の数々が走馬灯のように蘇る。

自らの尻尾を必死に虹色に染め上げていた、健気な姿。

空を自由に飛び、太陽の光をその一身に浴びる鳥の獣人たちに向けられた、羨望とほんの少しの嫉妬が入り混じった、複雑な眼差し。


──それらは決して、彼女がただの目立ちたがり屋だったからではない。

──ましてや、女王としての虚しい見栄や、プライドからくるものでもない。


(キミは、単なる目立ちたがり屋なんかじゃ、なかった。ただ……ただ、太陽の光を浴びたかっただけ。そして……民に、温かい太陽の光をほんの少しでも届けてあげたかっただけの……優しい女王様だったんだね)


アドリアンは、そこで初めてナーシャという一人の少女が、華奢な身体に背負い続けてきた願いの本当の意味に気付いた。

優しい女王様。でも不器用な少女。

それが、アドリアンには、とても眩しく感じられて──。


「ナーシャ様……。貴女様は……貴女様は、なんてお優しい方なんだ……!」


アドリアンが無言でナーシャを見つめていると、横にいるガクシャが瞳を大粒の涙で潤ませていった。

快活な性格の裏に隠された、目の前の若き女王が背負ってきた寂しさに胸を締め付けられ、嗚咽を漏らすことしかできなかったのだ。


「そうだね。ナーちゃんは、優しい優しい女王さまだからな……」


アドリアンの口元には、いつものような穏やかな笑みが浮かんでいる。


「ふふん!そう!そうなの!私は可愛くて優しくて、可愛くて強くて、可愛い女王さまなんだから!」


アドリアンは無言で頷いた。

ただ、目の前の一人の少女の幸せを心の底から願うように。


やがて、ナーシャはおもむろに視線をアドリアンへと移した。


「……ねぇ、アドリアン」


その声はいつものような快活で、少し棘のあるものではない。

夜の静かな空気に溶けるような、穏やかで甘えるような響きを持っていた。


「アンタの一番の願いは、なんなのよ?」


ガクシャと、そして自分自身の願いを真っ直ぐに受け止めてくれた、誰よりも優しく誰よりも強い英雄の願い。

ナーシャは、それをどうしても知りたかった。


その問いかけに、アドリアンは優しく微笑んだ。


「俺の願い?そうだね、俺の願いは──」


大草原に夜空の星が降り注ぐ。

それは英雄の、決して叶うことのなかった優しい夢の始まりを告げる、星の涙──。



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