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第百六十話

夜。

大草原の野営地は、多くの獣人たちが傷を癒し、静寂に包まれていた。

焚火の爆ぜる音だけが、満点の星空の下に穏やかに響き渡る。


しかし、その中で一つだけ。

煌々と、眠ることを忘れたかのように明かりが灯り続ける幕舎があった。


「……」


フードを被った獣人──この軍勢の頭脳、若き軍師ガクシャの幕舎である。

彼は積み上げられた膨大な資料と広げられた巨大な地図と、まさに「格闘」するように、その身を埋めていた。

フードの奥の純真な瞳は次の戦いで、いかにして仲間たちの犠牲を減らすか、その一点にのみ真剣に注がれていた。


その時である。


「あー!まだやってる!」

「ほら、言ったとおりだろ、ナーちゃん?あの真面目すぎる俺たちの軍師様は、放っておくとこうやって、飲まず食わずで地図と恋に落ちちゃうんだから」


快活な声に、ガクシャが驚いて顔を上げる。

それと同時に、幕舎の入り口が示し合わせたかのように開かれた。

そこに立っていたのは、こんがりと焼けた肉の串を何本も得意げに掲げるアドリアンと、その隣で湯気の立つスープの入った鍋を両手で持ちながら、ぷんぷんと頬を膨らませるナーシャの姿であった。


「アドリアン様?それにナーシャ様もご一緒に……」


驚くガクシャに、二人は心底呆れたという顔で口々に言った。


「こら!また食事を抜いて、こんな夜更かしして!アンタ、魔族に殺される前に過労で倒れちゃうわよ!」

「やれやれ、ガクシャは大草原の未来も自分の胃袋の未来も、両方いっぺんに背負いすぎなんだよ。俺たちが甲斐甲斐しく夜食を運ばなきゃ世界の平和を見届ける前に、壮大な腹の虫の音と共に餓死しちゃうんじゃないか?」


ガクシャは恐縮したように、痩身をさらに小さくさせた。


「あ、ありがとうございます。ですが、まだ戦況の分析が……」


彼がそう言って、再び机の上の地図に視線を戻そうとした、その時。

ナーシャが有無を言わさぬ手つきで、彼が広げていた地図をくるくると丸め、軍師の頭をぽかりと軽く叩いた。


「いーいーかーら!そんなものは後!腹が減っては戦はできぬ、って言うでしょ!アドリアン!」

「はいよ、ナーちゃん。……というわけだ。腹ペコの軍師に、良い策が思い浮かぶはずもないだろ?諦めて、俺たちの愛情たっぷりの夜食を胃袋に収めてくれ」


ガクシャが何かを言うよりも早く、二人はてきぱきと慣れた様子で作戦用の机の上の資料を片隅に寄せ、スープの鍋を置き、肉の串を器に並べていく。

強引な、しかし自分を気遣ってくれているのが分かる二人の姿に、彼は全ての抵抗を諦めた。


「……分かりました。では、少しだけ……お言葉に甘えさせていただきます」


ガクシャはどこか嬉しそうに、そう呟いた。

幕舎の中に、香ばしい肉の焼ける匂いと温かいスープの湯気が、穏やかに満ちる……。


「アドリアンってば、無駄に料理上手いわよね~。それも加護なの?」


ナーシャはとても美味しそうに、温かいスープをこくりと一口すする。

その横顔には、戦士でも女王でもない、ただの少女の、穏やかな表情が浮かんでいた。


「いやいや、これは加護なんてちゃちいものじゃないよ。そうだね……これは愛情と努力ってやつかな」

「……うわ、また変なこと言って。いつもそうやってカッコつけるんだから」


二人の目の前の兄妹のような軽口の応酬を、ガクシャは穏やかな笑みを浮かべて見つめていた。戦いのことを一瞬だけ忘れられる、温かい時間。

だが、そんな穏やかな空気を破ったのはガクシャであった。

彼は何かを思い出したかのようにおもむろにその匙を置くと、真剣な眼差しでアドリアンに問いかけた。


「アドリアン様……。先日の戦いで、魔族に与した、我らと同じ獣人の一団がおりました。この大草原に生きる同胞でありながら……何故、彼らは我らを裏切ったのでしょう?」


唐突な問い。

それは軍師として、戦況を分析するための問いではない。

仲間を信じ、大草原を愛する純真な獣人の青年としての、心の底からの素朴な疑問であった。

彼の瞳には同胞が同胞を裏切るという悲しい現実が、どうしても理解できないのだ。


その問いに、アドリアンは一瞬だけ瞳にどこか寂しげな表情を浮かべた。


「なんでだろうね。……きっと彼らにも、何かそうするしかなかった悲しい事情があったのかもしれない」


魔王軍の苛烈な猛攻に晒される大草原。

多くの獣人たちが故郷を、そして家族を失った。絶望の中で生きるために、守るべきもののために同胞を裏切り、魔王軍に与する獣人が現れていたのもまた、悲しい現実。


「悲しいことだけど……守りたいものが大きければ大きいほど、変わるしかないんだ。人も、獣人もね」


アドリアンのどこか寂しそうな言葉に、彼は自分自身に問いかけるかのように、か細い声で呟いた。


「もし、私も生まれる場所や育つ環境がほんの少しでも違っていたら……彼らのように、アドリアン様を……ナーシャ様を裏切ってしまっていたのでしょうか。あの日、あの場所でアドリアン様に出会えていなかったら……今の私は、私ではなかったのでしょうか」


ガクシャは震えながら、そう言った。

それを見て、アドリアンは不安に揺れる友の肩を力強く、叩いた。


「そんなことはない。君はいつだって君だ。優しくて誰よりも仲間思いな男。その魂は何があっても決して変わりようがない。それは俺が保証する」

「アドリアン様……しかし、私は『人の心』というのが恐ろしいのです」


ガクシャは震えながら小さな声で、心の奥底に眠る最大の恐怖を吐露した。


「もしもアドリアン様が我々を裏切った獣人たちのように、私たちの元から離れてしまったら。もし、我々に愛想を尽かしたりして、貴方様と対峙することになったら……私たちは……」


その言葉は、彼にとって考えうる限りの最悪の未来。

英雄という絶対的な光を失った世界の絶望を思い、彼の身体は恐怖に支配される。

そんな不安を打ち消すかのように、アドリアンは苦笑いしながら言った。


「俺が君たちを裏切るって?うーん……俺を裏切らせるには、魔王軍のどんな地位でも報酬が安すぎると思うよ。世界を全部くれるって言われても、君たちと過ごす時間の方が俺にとってはよっぽど価値があるんだからね」


茶化しつつもガクシャを安心させるようなアドリアンの言葉。

その言葉を聞いたガクシャは安堵した表情を浮かべたが、ナーシャは呆れたような表情を浮かべていた。


「あのねガクシャ……アンタ、アドリアンのこと何だと思ってんのよ。こいつが私たちを裏切るなんて、太陽が西から昇る方がまだあり得るから」


──ガクシャは、アドリアンが魔族に襲われていた名もなき集落から救い出した、獣人の一人であった。

彼は力も弱く、常にそのやせこけた身を縮こまらせ、誰かの影に隠れるようにして生きてきた。同じ集落の者ですら彼を侮蔑し、軽く見ていた。


しかしアドリアンだけは、違った。

アドリアンだけが、彼の内に秘められた類まれなる知謀の才能を英雄の瞳で見抜き、彼にこう言ったのだ。


『君の頭脳はどんな戦士の牙よりも、どんな族長の剛腕よりも強力な武器になる。──どうか俺の軍師になってくれないか』と。


ちなみに、ガクシャというのは本名ではなく、あだ名である。

彼がそう呼ばれるようになったのは、アドリアンがきっかけであった。「君はまるで学者みたいに物知りだなぁ!」と、彼を「学者くん」と呼び始めたのが始まりだ。

大草原には「学者」という存在がいないため、他の獣人たちはその意味もよく分からぬまま、音の響きだけで「ガクシャ」と彼を呼ぶようになったのだ。


ガクシャにとっては本名よりも、アドリアンがくれた名前の方が、好きだった。

アドリアンに与えられた『軍師』という役目と、みんなに頼られるガクシャという名前。

それこそが、彼の生まれて初めての『誇り』。


『私なんかが、英雄さまと共に……?』


それから、アドリアンとガクシャはまさしく一心同体となって大草原で戦い抜いてきた。

英雄の常識外れの勇猛なる突撃。その行く道を、ガクシャの常に二手三手を読み切った完璧な知略が支える。

アドリアンという最強の「剣」と、ガクシャという最高の「頭脳」。二人が揃えば、そこに敵はなかった。


──いや、違う。


二人だけではない。


「ていうかさ!」


しんみりとした空気をわざとらしく、バン!と机を叩く音と共に、打ち破った者がいた。


「アンタ、お腹空きすぎて頭おかしくなっちゃったんじゃないの!?心配性もいい加減にしなさいよね!」

「ナ、ナーシャ様……申し訳ございません。仰る通り、私は心配性で……」

「やかましい!せっかくの夜食が、まずくなるでしょ!裏切るやら裏切らないやら変な妄想話は、やめやめ!」



快活な、そしてどこまでも真っ直ぐな魂を持つ蛇の少女、ナーシャ。

彼女もまた、英雄とガクシャと共に幾多の死線を潜り抜け、大草原を戦い抜いてきたかけがえのない大切な仲間。



──三人は、いつも一緒であった。



ある時は魔王軍の脅威に、まだ日和見を決め込んでいる鹿の獣人族を味方に引き入れるため、三人でその集落を訪れたり……。



『我らベイルホーンは誰の力も借りずとも、部族を守り抜く!お前たちのような、弱者の力を借りるまでもないわ!さっさと帰れい!』

『へぇ、そう?でも悪いけど……君、弱いじゃん』


その言葉と同時。アドリアンはデコピンで、指を軽やかに、鹿の族長の額へと弾いた。

たった、それだけ。

次の瞬間、鹿の族長の巨体は砲弾のように凄まじい勢いで吹き飛び、遥か彼方へと消えていった。


『うぎゃああああ!!』

『ア、アドリアン様!だ、駄目ですよ!そのような、暴力的な行為は……!ナーシャ様も、アドリアン様に、何か言って差し上げて……って、え!?』


ガクシャが助けを求めるように、ナーシャへと視線を向ける。

しかしそこにいたのは、美しい虹色の尾を楽しげに揺らしながら、鹿の戦士たちを吹き飛ばしている蛇の少女の姿であった。


『え?なに?この生意気なクソ鹿どもは、全員ぶっ殺すんでしょ?』

『ち、違います!違いますよ、ナーシャ様!僕たちは彼らを仲間にしにきたんです!』



──またある時は、三人で魔王軍の最前線に位置する、巨大な砦の偵察任務に赴いたりもした。



『いい?砦の構造、兵の配置、巡回ルート……ぜーんぶ、私の可憐な頭脳に完璧に入ってるわ!あとは私が潜入して、中の機密情報を、ちょちょいと盗んでくるだけよ!』

『ナーシャ様、お待ちください!敵の巡回ルートには僅かながら致命的になりうる不確定な要素が……!計算によれば安全に潜入できる確率は73.4%!決して高くはありません!』

『うるさいわね!アンタがそうやって、ごちゃごちゃ計算してる間に日が暮れちゃうでしょ!』


岩陰に隠れながら、ああでもないこうでもないと、真剣に言い争いを始める二人。

そんな二人の様子を、アドリアンは、やれやれ、と、会呆れながら見ていた。


『何言ってるんだい、二人とも。砦ごと、そこにいる魔族さんたちを、ちゃちゃっと全部まとめて吹き飛ばしてしまえば、それでいいだけの話じゃないか』


アドリアンが言い放った、英雄的な解決策。

言い争っていた二人の声が止まった。


『『──え?』』


アドリアンは『星涙剣』を無造作に、天へと振りかざす……。


『ちょ、待っ──』


ガクシャとナーシャの、悲痛な叫びが最後まで紡がれることはなかった。

光が、全てを包み込んだ。そして砦は消滅した。


──その後。


『お前たち、機密情報の奪取に行くとか言ってなかったか……?』

『いやぁ、唐突な作戦変更が必要になってね。めんどくさかったからとかじゃ決してないよ』

『……馬鹿野郎!』


三人は獅子王レオニスの前できっちりとしこたま怒られることになった。


なんで私まで!


ナーシャとガクシャはそう言って、心外だとばかりに頬を膨らませていたが、隣で「ごめんごめん」と悪びれもせずに笑うアドリアンの笑顔の前には、全くの無力であった。


そう……彼らは。


嬉しいことも、悲しいことも、辛いことも。

いつだって様々な経験を、三人で分かち合ってきたのだ。


そうして今、アドリアンたちは近いうちに起こるであろう魔王軍との大規模な戦いに備え、つかの間の穏やかな時間を過ごしているのである。


「もう!そんな、眉間に、こーんな深ーい皺が寄っちゃうような小難しい話は、後!それより、もっと楽しい話をしましょ!」


アドリアンとガクシャの少しだけしんみりとした空気を、ナーシャが手に持った肉にかぶりつきながら快活な声で打ち破った。

彼女の真っ直ぐな言葉に、二人は思わず顔を見合わせ、笑みを漏らす。

アドリアンは楽しげに、彼女を見つめながら問いかけた。


「へぇ、楽しい話ねぇ。例えば、どんな?ナーちゃん」


悪戯っぽい問いかけに、ナーシャは口の周りに肉の脂をいっぱいつけながら、天真爛漫な笑みを浮かべて、こう言い放った。


「──戦いが終わったら何がしたいか、とかさ!」



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