巨大な軍議の幕舎。
そこには主要な部族の長たちが重い沈黙の中、顔を突き合わせていた。
中央に広げられた巨大な地図には魔王軍の侵攻経路を示す無数の赤い印が、大地を蝕む呪いのように無慈悲に刻まれている。
「もう我慢ならねぇ!ちんたらしてたら、また魔族の奴らにいいようにやられちまうんだぞ!タウロスやフォクシアラがどうなったか忘れたのか!?」
雷鳴のような声を発したのは、サイの獣人——リノケロス族の女族長、イルデラであった。
彼女は巨大な戦斧を机に突き立てんばかりの勢いでそう叫んだ。
「二つの大部族が魔王軍の奇襲であっという間に滅んじまった!もっと早く部族が完全に纏まれば、こんなことにはならなかったんだよ……!」
イルデラの怒りと悲しみに満ちた叫びを聞き、隣に座っていたアクィラントの族長ゼファーが静かに呟いた。
「……イルデラの言う通りだ。我らの部族間の下らぬ確執が、勇猛なるタウロスを……美しきフォクシアラの民を滅ぼした。あの時点で我らが一つに纏まっていれば、このようなことには決してならなかったはずだ」
冷静沈着で常に大局を見据える天空の王が後悔に顔を歪ませ、そう呟く。
その言葉の重みを、誰もが痛いほどに理解していた。そして同時に、それは自分たち罪でもあるということも……。
「そうだぁ……。最初っからみんな仲良うしとったら、タウロスもフォクシアラも今もここにおったんじゃなぁ……」
そう言ったのは熊の獣人——ウルグリッド大部族の族長、ボルドであった。
山のような巨躯とは裏腹に彼の声はどこまでも優しく、悲しみに満ちていた。
温厚で争いを好まないことで知られるウルグリッド。しかしひとたび、仲間や家族が傷つけられれば、戦闘能力は他のどの部族の追随をも許さない山の王である。
──フェルシル大草原は魔王軍の苛烈な猛攻に晒され、領土はかつてないほどに侵食されていた。
かつてこの大草原を支配し秩序を支えていた六大部族もまた、その内の二つ——タウロスとフォクシアラは魔王軍に瞬く間に滅ぼされてしまった。
牛の獣人の大部族が守っていた戦線の穴を埋めるように、イルデラ率いるリノケロス大部族が主要戦力として入ってはいるが……それでも、一度失われた命は二度と戻ってはこないのだ。
それもこれも全てはリガルオンという絶対的な支配者の元に、獣人たちが迅速に、完全に一つに纏まることが出来なかったのが原因であった。
「過ぎたことを、今更言っても仕方がない。今はアドリアンのおかげで、こうして我らは一つに纏まって……」
ヴォルガルドの族長グレイファングが苦々しくも、前を向こうと言葉を紡ぎかけた、まさにその時。
その隣にいた、巨躯の男——大草原の王、リガルオンの長レオニスが、それまで黙って伏せていたその顔を上げ、静かに立ち上がった。
「……」
ただ一つの動作。
それだけで、先ほどまで喧々囂々たる議論が繰り広げられていた幕舎内が水を打ったように静まり返る。
彼の黄金の鬣を思わせる豊かな長髪が幕舎の入り口から吹き込む風に、静かに揺れた。
「──全ては、この俺の不徳」
レオニスの苦渋に満ちた声が静まり返った幕舎に響き渡る。
すかさずグレイファングが、その言葉を遮るように言った。
「王よ!御身だけの責ではない!あの時我らとて、魔王軍という存在の本当の恐ろしさを正しく認識できていなかった!これは我ら全ての獣人の責め!」
グレイファングがそう庇うも、レオニスの脳裏には魔族の刃の前に無残に命を散らしていった、同胞たちの姿が鮮明に映っていた。
「我らが……リガルオンがもっと早くに、大草原に生きる全ての民の心を固い絆で結びつけておれば……。これほどの血が大地に流れることも、これほどの悲しみが生まれることも決してなかった」
大草原で最強と謳われた男の深い悲しみが、その場にいる全ての獣人たちの胸に痛いほどに突き刺さる。
──その時だった。
悔恨と絶望が支配する重苦しい沈黙を、一人の青年の一際明るく覇気に満ちた声が打ち破ったのは。
「皆さま!」
幕舎にいる全ての族長たちが、声の方に顔を向ける。
そこには一人の獣人が、机に身を乗り出すようにして、族長たちを見渡していた。
顔はフードに覆われ、伺うことはできないが、その声から並々ならぬ感情が伝わってくるのがわかる。
「過ぎた悲しみに、今はただ黙祷を捧げることしかできません。──ですが!僕たちは未来のために、戦わなければならないはずです!」
この軍の若き軍師──ガクシャの声が幕舎に響き渡る。
「僕たちは今、英雄アドリアン様と獅子王レオニス様という二つの大きな光の下に纏まっています!この力を大草原の未来に繋げることこそが……散っていった、タウロスやフォクシアラの仲間たちへの一番の弔いになるはずです!どうか、皆さま、顔を上げてください!我らの戦いは、まだ、終わってないのですから!」
彼の希望に満ちた声。
それは後悔と絶望に沈んでいた百戦錬磨の族長たちの心を強く揺さぶった。
そして、それまで重苦しい沈黙を保っていた族長たちが、自嘲するような笑みを浮かべる。
「へっ……そうだな、コイツの言う通りじゃねぇか。アタイたちは、戦わなくちゃならねぇ」
イルデラが、太い腕を組みながら頷きながらそう言った。
「……ああ。過ぎたことを悔やんでいても、失われた命は戻らん。我らがすべきはただ一つ……未来のために戦うことだけよ」
ゼファーもまた、冷徹な表情をわずかに和らげ、決意を込めて頷く。
続いて、ボルドも大きな瞳を潤ませながら、力強く微笑んだ。
「若人の真っ直ぐな瞳は、どんな賢人の言葉よりも道を示す光となるもんじゃのう」
獅子王レオニスは黄金の瞳に再び王としての力強い光を宿すと、軍師へと絶対的な信頼を込めて言葉をかけた。
「我が軍師、ガクシャよ。其方の言葉、確かに我らの心に届いた。さぁ、我らが軍師よ。勝利への道筋を示してくれ」
王からの、そして大草原の偉大なる族長たちからの揺るぎない信頼の眼差し。
それを一身に受け、ガクシャは純真な瞳を決意の光で輝かせる。
「我々の勝利への道筋……それは、ただ一つ。英雄アドリアン様と、獅子王レオニス様、お二人の双肩にかかっています……」
彼は全員を見渡し、力強い声で言った。
「魔王軍が誇る魔大公ベゼルヴァーツの軍勢は、確かに強大。今まで、如何なる軍も奴の率いる軍勢に敵わず、数多の勢力が滅ぼされました。──ですが!お二人が揃えば、その軍勢すらも退けることが出来ると、私は信じているのです!」
その真っ直ぐな言葉に、グレイファングが皮肉気な笑みを漏らした。
「しかし、その英雄どのは今、どこにいるんだろうな。大草原の運命を左右する重要な軍議は、とうに始まっているというのに」
本来ならば、獅子王レオニスの隣にいるはずの人間の英雄アドリアンの姿がない。
だがガクシャは、グレイファングの懸念にも、にこりと純真な笑みを浮かべると幕舎の入り口をじっと見据えて言った。
「ご心配なさらず、グレイファング様。英雄はいつだって一番いい場面に、格好良く現れるものですから」
自信に満ちたガクシャの尻尾が、期待にぴんと揺れた、まさにその直後。
「──その通り!君は実によく分かってるねぇ!流石は俺が見込んだ、天才軍師だ!」
幕舎の入り口から快活で、飄々とした声が響き渡る。
その声に幕舎にいた全ての族長たちが一斉に入り口へとその視線を向けた。
そこには、堂々たる姿で満面の笑みを浮かべる英雄が——。
──いなかった。
代わりにそこにいたのは、美しい蛇の尾に身体をぐるぐる巻きにされ獲物のように引きずられてくる、一人の黒髪の人間の姿であった。
「英雄はいつだって少しばかり遅れてやってくるものなんだよな!——たとえ美しい蛇のお姫様の、愛の尻尾に捕らえられていようがね!」
アドリアンはナーシャに引きずられながらも、最後まで英雄としての体裁を整えようと集まった族長たちに向けて、格好つけた笑みでひらひらと手を振り続けていた。
その情けない英雄の姿に、その場にいた誰もが呆然とする。
そんな中、引きずってきた張本人であるナーシャが心底呆れたように言った。
「アンタさぁ。『一番いい場面に、必ず現れる英雄』って、まさかこいつのこと?」
ナーシャはそう言うと、用済みの荷物でも捨てるかのようにポイッとアドリアンの身体を放り投げた。
だが、アドリアンは放物線を描く軌道の中で空中で優雅に身体を回転させると、完璧なポーズを決めながら机のど真ん中に着地する。
「さぁ、諸君!お待たせしたね!これで主役は揃った!いざ大草原を救うための、輝かしき円卓会議を始めよう!」
アドリアンは、そう高らかに宣言する。
しかし、全員呆れたような目でアドリアンを見るばかり。
「……ん?なになに?『遅刻してきたくせに、何を偉そうに』って顔に書いてるように見えるな。いやいや、違うんだなこれが。これは遅刻じゃない。俺という眩しすぎる太陽がいきなり昇ると、目が眩んじゃうだろ?だからまずは君たちだけで議論を温め、心の準備をするための時間をあげたってワケ」
ふざけきった言い草に、幕舎にいる族長たちが揃って深いため息をついた。
「けっ、相変わらず口だけは達者だな。まぁでも……お前らしいっちゃらしいな」
イルデラは呆れたようにそう言ったが、その口元にはどこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「ふん……。その減らず口を叩けるのも、確かな実力があってこそ、か。」
グレイファングも皮肉気な言葉とは裏腹に、隻眼にはアドリアンへの絶対的な信頼の色を宿していた。
この場にいる誰もがアドリアンという男の、その言葉の軽さとは対照的な圧倒的な力と、誰よりも仲間を思う優しい魂を知っているのだ。
「ご苦労だったな、ナーシャよ」
獅子王レオニスが、どこか楽しげな声色でナーシャに声をかける。
それを聞きナーシャは、はっと我に返ると、レオニスに向かってぷんすかと怒った顔で言った。
「ほんとにね!レオニス様も、もう少しこの馬鹿英雄に厳しく言ってよ!アドリアンったら私の尻尾に巻かれたままずっと、ぺちゃくちゃ喋り続けてたんだから!鼓膜が破れた方が、まだマシよ!」
まるで兄に甘える妹のようなナーシャの気安い物言いを、軍師ガクシャは、穏やかな笑みを浮かべて見つめていた。
「ふふっ……」
彼の瞳には、大草原の偉大なる王、そして、周りに集う個性豊かで誰よりも強い族長たち……そして中心にいる、人間でありながら誰よりも獣人たちの心を理解する、英雄の姿が映っていた。
──この方たちがいれば、大丈夫だ。何も、怖いものはない——
そんな絶対的な安心感が、ガクシャの心を温かく満たしていた。
「──さぁ。ガクシャ」
その時、アドリアンの力強い手がガクシャの肩に置かれた。
「君を待たせてしまった罪滅ぼしのためにも、さっさと大草原を救うための会議を始めようじゃないか」
英雄の悪戯っぽく、しかし絶対的な信頼を込めた言葉。
彼は瞳に揺るぎない決意の光を宿らせて、力強く答えた。
「──はい!」
大草原に風が吹く。
人間の英雄が齎した希望の風が。