小高い丘に守られた平原。
そこには無数のテントが立ち並び、多くの焚火の煙が夕暮れの空へと静かに昇っていた。
ここは魔王軍という脅威に対抗するため、生き残った獣人たちが部族の垣根を越えて集結した、連合軍の野営地である。
武器の手入れをする屈強な狼の戦士、傷ついた仲間を薬草で癒す鹿の獣人、そして両親を失ったのだろう小さな子供たちに、黙って干し肉を分け与える熊の獣人——。
魔王軍の侵略によって、彼らは多くの同胞を、故郷を失った。
しかし、この野営地に集う獣人たちの顔に、絶望の色は浮かんでいなかった。
それどころか、その瞳には明日への確かな希望の光が宿っている。
なぜならば——。
「やぁ、モフモフのみんな!どう?元気に日向ぼっこしてる?」
彼らには種族も文化も超えて、苦楽を共にする絶対的な「英雄」がいるのだから。
「アドリアンさま!?アドリアン様がご帰還なされたぞ!」
「わぁ、英雄さまだー!」
アドリアンの軽やかな声に最初に気づいたのは、野営地で遊んでいた獣人の子供たちであった。
彼らが駆け寄ってくると、それを皮切りに休息をとっていた獣人たちが皆、一斉にアドリアンの元へと群がってくる。
その顔には心からの安堵と、絶対的な信頼の色が浮かんでいた。
アドリアンは、そんな彼らの歓迎に慣れた様子で、一人一人に優しく笑いかける。
「やぁやぁ、みんな。俺がいなくて、寂しかったかい?よし、それじゃあ、お詫びと言ってはなんだけど……この英雄様が、とびっきり素敵な魔法を見せてあげよう!」
アドリアンは芝居がかった仕草でくるりと一回転すると、手から柔らかな翠色の光を、大地へと放った。
──すると、どうだろう。
乾いていたはずの大地から、ぴょこんと可愛らしい木の苗木が顔を出し、次の瞬間には天へと届けとばかりに、瞬く間にぐんぐんと成長していくではないか。
そして、あっという間に見上げるほどの大樹へと姿を変えると、枝にはたわわに赤や黄色の、見るからに美味しそうな果実が、鈴なりに実を成らしたのだ。
「おぉ……!なんという御力だ……!」
「わーい!ご飯だー!」
奇跡としか言いようのない光景に獣人たちは目をキラキラと輝かせる。
子供、大人も、顔に満面の笑みを浮かべると、嬉しそうに木になったばかりの果実をもぎ取り、幸せそうに頬張り始めるのであった。
「みんな、今日も元気だね。あぁ、本当に……」
平和で温かな光景を、アドリアンは暖かい、慈しむような眼差しで見守っていた。
──英雄アドリアン。
その名を知らぬ者は、今や、この世界にはいない。
人間、エルフ、ドワーフからなる大連合の若き旗頭。魔王軍の暴虐に、唯一対抗しうる希望の光として、誰もが彼を英雄と称え彼の勝利を信じている。
その大連合の本隊は、今も、世界の各地で、魔王軍と激しい戦いを繰り広げている。
そんな中、魔王軍はこのフェルシル大草原へと本格的な侵攻を開始したのだ。
しかし連合軍とて、無尽蔵に兵がいるわけではない。全ての戦線に、十分な援軍を送るほどの余裕はない……。
だからこそ、アドリアンはたった一人でこの地に降り立ったのだ。
ただ一人の英雄として、大草原を、そしてここに生きる獣人たちを、その手で救うために。
「ねぇねぇ、英雄さま!」
「前みたいに、冒険のお話聞かせてー!」
果物を食べ終わったのか、子供たちはキラキラとした純真な好奇の瞳でアドリアンにそうねだってきた。
その眼差しを一身に浴びて、アドリアンはやれやれと大げさに肩を竦めてみせた。
「君たち、元気いっぱいだねぇ。英雄は戦いの後で少しばかりお疲れなんだけどなぁ。でもまぁ?未来ある可愛い子供たちからの、熱烈なお願いとあらば、応えないわけにはいかないね!」
アドリアンはそう言うと芝居がかった仕草で立ち上がり、周囲に集まる全ての獣人たちを見渡しながら声を高らかに響かせる。
やれやれと言いながらも、その実内心では、誰よりも乗り気であることは、火を見るよりも明らかである。
「さぁさぁ!寄ってらっしゃい、聞いてらっしゃい!大草原のモフモフたち!これから語られるは、大英雄アドリアンが織りなす、愛と、勇気と、そしてちょっぴりの感動が詰まった、一大スペクタクル英雄譚だ!ハンカチの用意はいいかい?爪で涙を拭うと、顔が傷ついちゃうからね!」
アドリアンが語り始めたのは、とある邪悪なドラゴンの根城にたった一人で乗り込んだという、手に汗握る冒険譚であった。
「さぁ、よく聞くんだみんな!そのドラゴンの鱗は夜の闇よりも黒く、爪はどんな鋼鉄の剣よりも鋭かった!ブレスを一度吐けば一つの国がまるごと消し炭になっちまうってんだから、とんでもないよな!」
アドリアンは大きな身振り手振りを交え、時に声を潜め、時に声を張り上げ、巧みに物語の世界へと皆を引き込んでいく。
獣人たちは、アドリアンの話術にすっかり夢中であった。
「そんなドラゴンの前に、兵士たちは尻尾を巻いて逃げ出すばかり!だが、この英雄アドリアンは違った!俺は言ったのさ!『ドラゴンさんよ、そんなに火を噴くのが好きなら、俺が、その喉を、キンキンに冷えた氷の剣で、永遠に冷ましてやろうじゃないか!』ってね!」
「おぉー!」と、子供たちから歓声が上がる。
しかし、その中で一人の頭の良いネズミの獣人の男の子が不思議そうに、こてりと首を傾げた。
「でも英雄さま。氷の剣じゃ、ドラゴンの炎ですぐに溶けちゃうんじゃないですか?」
純粋で的確なツッコミ。
アドリアンは、一瞬だけきょとんとした顔をしたが、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべて、ウインクしながら囁いた。
「……するどい指摘だね、ネズミくん。そう、だから俺は氷の剣を一秒間に百回、新しく作り直しながら戦ったのさ。英雄ってのは、意外とそういう地道な努力も必要だったりするんだよ。これは君だけに教える、秘密の作戦だからね!」
そのどこまで本気で、どこから冗談なのか分からない答えに、皆は目をぱちくりとさせた後、やがて周りの子供たちと一緒になって、楽しそうにけらけらと笑い声を上げる。
アドリアンは満足げにそんな光景を眺めながら、さて、次の一番面白い見せ場でも語ってやろうか、と口を開いた。
まさにその時であった。
「また嘘ばっかり言って!——とぅっ!」
突如として、背後から鈴を転がすような、快活な声が響き渡る。
「!」
声と、背後から迫る気配を察知した瞬間。
アドリアンの意思とは全く無関係に、その身に宿る『英雄の加護』の一つ【危険察知】が自動的に発動した。
彼の身体は、風に導かれるかのように滑らかに、そして一秒の隙もなく後ろから飛び掛かってきたその人物をいなすように、腕の中へと収めていた。
「わわっ!?」
後ろからアドリアンに飛び掛かってきたのは、長い艶やかな黒髪を風に靡かせる蛇の獣人の女性——ナーシャであった。
彼女は、アドリアンが反応できないものとばかり思って、悪戯っぽく飛び掛かったというのに、いとも容易くその身を捕らえられてしまったことに驚愕の声を上げる。
気づけば彼女の身体は、アドリアンの腕の中にすっぽりと、所謂「お姫様抱っこ」の体勢で収まっていた。
「やぁ、ナーちゃん。嘘なんかじゃないさ。ほら、この通り。物語の最後には、邪悪なドラゴンに囚われていた美しいお姫様が、英雄の腕の中に無事収まることになってるんだからね」
周囲にいた獣人たちから、楽しげな笑い声が上がる。
「ナーシャ様だ!」
「あーあ、またアドリアン様に受け止められてるー!」
そんな無邪気な子供たちの声に、アドリアンにお姫様抱っこされたまま固まっていたナーシャは、はっと我に返ると、顔をカッと真っ赤に染め上げた。
そして美しい虹色の蛇の尾を、ばしばしとアドリアンの身体に叩きつけながら、彼の腕の中からするりと逃れる。
「あーもう!なんなのよ、アンタは!なんで、いっつもいっつも、私の奇襲が失敗するわけ!?」
地面に降り立ったナーシャは、照れ隠しにぷんすかと怒った表情でアドリアンにそう言い、ぷいと顔を背けた。
「はは、危うくやられるところだったよ。反応があと一歩遅れてたら、俺の心臓は君のものだったかも」
「嘘ばっかり!いつも余裕たっぷりじゃない!」
「いやいや、君の奇襲は日に日に上手くなってるからなぁ」
「……ふん。アンタはお世辞ばっかり上手くなってるわね」
かつて道に迷っていたアドリアンを、セルペントスの隠れ里へと導いた当時の族長の娘、ナーシャ。
しかし魔王軍との苛烈な戦いの中で、父である族長は民を守り戦死した。
その後を継ぎ、彼女は若くしてセルペントス族の新たな族長として、女王として大草原の連合軍に参加しているのだ。
アドリアンと出会った頃はまだ少女らしい、あどけない身体つきであったが……今はその身に戦士としての力強さと、女王としての気品、そして妖艶な女性らしさを確かに醸し出している。
「見てなさい!そのうちアンタのその澄ました顔に、本当に一発入れてやるんだから!」
……なお、その見目麗しい肉体的な成長とは反対に、彼女の精神面は今もなお、天真爛漫で快活で無垢な少女のままであった。
彼女は女王ではあるが、セルペントスの戦士らしく身のこなしは俊敏で、類稀なる奇襲を得意とする強力な戦士でもある。
だが、その十八番であるはずの奇襲も、アドリアンという男に通じたことは、ただの一度もない……。
「ところで、何の用?ナーちゃん」
「何の用って……アドリアン、アンタ、本気で忘れてるでしょ!レオニス様も、ガクシャも、他の族長たちも、もうとっくに軍議の幕舎で、アンタのことを待ちくたびれて爪とぎしながら待ってるんだから!」
「えっ……」
ナーシャの言葉を聞き、アドリアンは何かを今まさに思い出したかのように、身体をぴたりと硬直させた。
そして、顔に分かりやすく引き攣らせた笑みを浮かべると、周囲の獣人たちに向かって叫んだ。
「皆さん!話の途中だけど今日の英雄劇場はここまで!いやぁ、決してこれから行われる世界の運命を左右する、とーっても重要な軍議のことをうっかりすっかり、忘れていたわけじゃないんだよ?ただほら、美しい蛇のお姫様から熱烈なデートのお誘いを受けてしまってね。付き合うのもまた、英雄としての義務ってやつなのさ」
アドリアンの誰が聞いても白々しい言い訳が、最後まで紡がれることはなかった。
「あのね、言い訳はいいから、早く来るの!」
ナーシャは呆れたようにそう言うと、しなやかな蛇の尾でアドリアンの腕をぐいと力強く巻き付けた。そして有無を言わさず、そのまま無理やり引きずっていく。
アドリアンはナーシャに引きずられながらも、集まった獣人たちに向けて最後まで英雄としての体裁を整えようと、格好つけた笑みで手を振り続けていた。
「みんなー!話の続きは、また今度な!次は、ドワーフの地下帝国で、俺が美しきドワーフの姫君と禁断の恋に落ちて帝国を救っちゃうっていう、涙なしには聞けない感動の冒険譚だから、楽しみにしててくれよなー!」
ナーシャに引きずられ、アドリアンの姿が遠ざかっていく。
残された獣人たちは、締まらない英雄の退場劇を、呆気にとられて見送るばかりであった。
やがて、先ほどまでアドリアンの話に目を輝かせていた子供たちの中から、一人少女がぽつりと純粋無垢な声で呟いた。
「ねぇ……英雄さま、きっと、なにか忘れてたよね」
「うん……絶対、忘れてた」
隣にいた少年も、こくりと確信に満ちた様子で頷く。
子供たちの無慈悲な言葉が大草原の穏やかな風に乗り、静かに消えていった。
あぁ、大英雄の威厳は何処に──。