これは、この世界とは似て非なる、英雄アドリアンがかつて生きた世界の記憶。
母なる大地で出会った、かけがえのない仲間たちとの、愛おしい追憶の物語——。
♢ ♢ ♢
魔王軍の総攻撃によって、大草原は炎と黒煙に包まれていた。
かつて、どこまでも続いていたはずの緑の地平線は、今はもう存在しない。
赤黒い血と、燃え盛る炎の色に染まる地獄……それが、今のフェルシル大草原。
「ふぅむ……。大草原の獣人、如何ほどのものかと思うておったが。あれではまるで獣よ」
一人の魔族が、退屈そうに小高い丘の上から大草原を見下ろしていた。
額から天を突くように伸びる、禍々しい長大な角。幾多の戦場を駆け巡ってきたことを示す、無数の傷跡が刻まれた壮年の魔族。
全身から放たれる圧倒的な威圧感は、彼がただの兵士ではなく、精強な軍勢を率いる将軍であることを雄弁に物語っていた。
「ははっ、その通りですな!所詮は未開の地に住まう、蛮族ども!我ら偉大なる魔王軍の敵ではありませぬ!」
将軍の傍らに控えていた屈強な魔族の兵士たちが、下卑た笑い声を上げながら、そう言った。
──魔族の将軍と、副官たちの眼下にでは悍ましい光景が繰り広げられていた。
「全魔導師団に通達。第四術式『焦熱地獄』の詠唱を開始せよ」
「シャヘライトの魔力供給を怠るな。一滴残らず、獣どもにくれてやれ」
指揮官たちの、冷徹な号令。
それを受け、控えていた魔王軍の魔導師部隊が一斉にその手に持つ杖を天へと掲げ、不気味な詠唱を開始する。
彼らの背後では、おびただしい数のシャヘライト鉱石が、脈打つように禍々しい光を放っていた。
そして、その前方では。
「魔族のやつらの首を、食いちぎれぇ!」
「総員、突撃!!我ら獣人の誇りを見せてやれ!」
数で、そして魔法の力でも圧倒的に不利な状況であると知りながらも、獣人たちの軍勢は闘志を些かも衰えさせることなく、魔王軍の陣営へと怒涛の如く迫っていく。
そんな無謀な突撃を、魔族の将軍たちは丘の上から嘲笑っていた。
「くはは……!戦術も知らぬ獣どもは、実に哀れよのう。死に急ぐその姿、まさに虫けらそのもの……。その惨めな命、我らが慈悲の炎で、一瞬で終わらせてやれ。──撃て!!」
将軍の最後の号令が、拡散魔法によって増幅され、魔術師部隊全域に響き渡る。
それと同時に、魔族の魔術師たちの周囲の空間が迸る膨大な魔力によって、陽炎のように歪み始めた。
魔族の魔術師たちの詠唱が完了した、まさにその瞬間。
彼らが掲げた杖の先端から、凝縮された魔力が灼熱の光の奔流となって、一斉に放たれた。
「っ!?」
数十、数百の光の筋が空を赤く染め上げ、一つの巨大な炎の津波となって眼下の獣人たちへと襲い掛かる。
「ぐわあああああああっ!!」
「あ、熱い!た、助け──」
それは、もはや戦いですらない。一方的で、無慈悲な虐殺であった。
誇り高き獣人たちの屈強な肉体も、魔王軍の戦略魔法の前では、あまりにも無力。
炎の津波に飲み込まれた者たちは悲鳴を上げる間もなく、骨の髄まで焼き尽くされ、黒い炭となって崩れ落ちていく。
大地は焼け爛れ、大気は肉の焼ける異臭と、断末魔の叫びで満たされていた。
「ふん……」
その凄惨な光景を、魔族の将軍は丘の上から、満足げに見下ろしていた。
「抵抗らしい抵抗もできぬとはな。やはり薄汚い獣は、こうして灰になるのがお似合いよ」
将軍の皮肉気な呟きに、周囲の副官たちが嘲笑を漏らす。
悪魔の笑い声が、獣人たちの苦痛に満ちた呻き声と、肉体が爆ぜる音に重なり、地獄のような不協和音となって、黒煙の立ち上る大草原に響き渡る。
「ここまでか……!」
もはや、これまで。
炎に囲まれ、一人の年老いた獣人の戦士が諦めたように呟いた。
その時だった。
──天が、裂けた。
二つの巨大な光の柱が空を覆っていた黒煙を切り裂き、流星のように戦場のど真ん中へと降り注いだのだ。
「なんだ!?」
「魔法……?いや、あれは!」
やがて、光が収まった戦場の中心には二つの人影が立っていた。
一つは黄金の獅子の鬣を思わせる豊かな長髪を風になびかせ、その身から王者の覇気を放つ獅子の獣人——リガルオンの長、レオニス。
その光景を、丘の上から見下ろしていた魔族の将軍は眉をひそめる。
(獅子王レオニス!?なぜ奴がここに……!い、いや……そんなことより、隣の男は……!?)
将軍の視線はレオニスの隣に立つ、もう一人の人影へと注がれる。
額から天を突くように伸びる、禍々しい長大な角。幾多の戦場を駆け巡ってきたことを示す、無数の傷跡。
その姿は他の誰でもない……この丘の上から魔王軍を指揮している、将軍──つまり、自分自身だった。
「なっ……何故、俺が二人いる……!?」
ありえない光景に、将軍だけではなく周囲の魔族たちも、そして獣人たちまでもが言葉を失う。
戦場の混乱が、一瞬だけ嘘のように静まり返った。
その静寂を破ったのは獅子王レオニスの呆れたような声だった。
「おい、アドリアン。いつまでその気色の悪い姿でいるつもりだ。さっさと元に戻らんか」
その声に応えるように、偽りの将軍——その口元が、にやりと楽しげに歪む。
次の瞬間、禍々しい魔族の姿が陽炎のように揺らめき、蒼い光の粒子となって霧散した。
そして、光が収まった後に立っていたのは——。
「やれやれ。少し留守にしている間に、随分と好き勝手してくれたみたいだね、魔族の皆さん」
蒼き星の輝きそのものを身に纏う、黒髪の青年——英雄アドリアン。
「アドリアン……!?そうか、変身魔法で私に化けて……だが!何故、貴様がここにいる!?」
丘の上の将軍が、動揺もあらわに叫ぶ。
奴は今、我が軍の陽動部隊に誘き出され、遥か西の果てにいるはずではなかったのか!
そんな将軍の絶叫など意にも介さず、戦場の中心で二人の英雄は軽やかな会話を始めた。
「魔王軍はまだ状況が飲み込めてないみたいだね。俺の変身、よほど出来が良かったのかな?少しイケメンにしすぎたのかも」
「ふん、あの程度で騙されるとはな。偽の命令を出して第三魔導師団を東へ行かせた時も、誰も疑わなかったようだしな」
「ついでに補給部隊の座標も少しズラしておいたけど、今頃道に迷ってそうだねぇ。お腹を空かせた魔族さんたちには、ちょっと可哀想だったかもしれないな!」
二人の会話が、直接将軍の耳に届いたわけではない。
だが、将軍は確かに理解してしまったのだ。
(ま……まさか……!)
丘の上からでも分かる、二人の余裕綽々とした態度。戦況の全てを自分たちが支配しているとでも言いたげな、軽口を叩き合う姿。
そして、少し前から感じていた自軍全体の不可解な動き。第三魔導師団からの不可解な報告。補給部隊の混乱。
──極めつけは、自分自身に変身していた英雄の姿。
「……!」
全ての点が一本の線として繋がった瞬間、将軍の顔から血の気が引いていく。
我が軍は、獣人たちを追い詰めていたのではない。
英雄アドリアンの敷いた掌の上で、都合よく踊らされていただけだったのだ。
陽動にかかったのは、我らの方。この戦場こそが、我らを一網打尽にするための罠だったのだ──!
「お、のれ……」
将軍は、自分が最初から最後まで英雄の掌の上で滑稽に踊らされていた道化であったことをようやく理解した。
戦慄が彼の巨体を、そしてその場にいる全ての魔族の兵士たちの心を支配した。
「じゃあそろそろ……大草原を荒らした悪い子たちへの、お仕置きの時間だ!」
「あぁ。我らが力、魔族共に見せてやろう!」
その言葉と同時に、アドリアンの全身から蒼き光が、レオニスの全身から金色の闘気が溢れ出した。
そして、次の瞬間──二人の姿は、戦場を踊るように駆け抜けていた。
「みんな!誰が一番、優雅に戦場を舞えるか競争しようか!審査員は……ああ、残念。すぐにいなくなっちゃう魔族の皆さんだ」
アドリアンのその言葉を合図に、アドリアンの周囲で三色の光が華麗に咲き誇った。
ダイヤモンドダストを纏う氷の大精霊・フロスティア。翠の風を身にまとう風の大精霊・シルフィード。そして、猛る炎を体現した炎の大精霊・イフリティア。
三柱の大精霊が、主役の登場を祝うかのようにアドリアンの周囲を優雅に舞い始める。
大精霊たちが奏でる風の刃や炎の渦が、アドリアンが放つ魔法と交わりながら、魔王軍を蹂躙し始めた──。
「流石だな、アドリアン!俺も負けておられぬわ!」
その神業に負けじと、獅子王レオニスが猛る闘気を黄金のオーラとしてその身に纏い、魔王軍の只中へと突撃する。
レオニスの黄金の拳が唸りを上げるたび、分厚い鎧や盾が紙くずのように砕け散り、衝撃波だけで周囲の敵が吹き飛んだ。
獅子王の豪快な戦いぶりに、アドリアンは肩をすくめて皮肉気な軽口を叩く。
「レオニス。君の戦い方は相変わらず派手で、ちょっと野蛮だね。後で掃除が大変そうだ」
「何を言っている?掃除なら、今してる最中だろう!」
「あはは、それもそうだ!」
二人は背中合わせになりながら、まるで散歩でもするかのような気軽さで、着実に魔王軍の戦線を崩壊させていく。
そんな中、レオニスが屈強な魔族の兜を拳で砕いた、まさにその瞬間だった。
彼のすぐ隣で、アドリアンの周囲から迸った聖なる炎の奔流がレオニスの頬を掠めていく。
「ぬぉ!?……おい、アドリアン!今の炎、俺に当たるところだったぞ!」
レオニスは、チリチリと焦げた鬣を揺らしながら、忌々しげに叫んだ。
対するアドリアンは、向かってくる魔族の首をはねながら、悪びれもせずに笑って答える。
「ごめんごめん。今、彼に伝えたらさ『邪魔だ、獅子王。俺の炎の通り道を遮るな』だってさ。彼はちょっと気難しくてね、俺以外には容赦なく炎を浴びせちゃうんだよな」
「張り切って俺を焼くな、イフリティア!少しはシルフィードの謙虚さを見習え!」
軽口を叩き合いながらも、二人の手は止まらない。
アドリアンが剣を振るえば星屑の嵐が舞い、レオニスが拳を振るえば大地が揺れる。
彼らにとってはただの雑談混じりの作業でも、魔族たちにとっては悪夢そのもの。自慢の大軍が、談笑する二人の英雄によって、ただただ消し去られていくのだ
そして、その光景を、魔王軍を率いる将軍はただ呆然と見ているしかなかった。
「アドリアンッ……!くそ、くそ!あの男さえいなければ、世界は今頃我々のものだというのに──」
遥か後方の丘の上、安全な場所から戦況を見下ろしていたはずの魔族の将軍は、震えていた。
そんな彼の絶望など意にも介さず、戦場の中心で二人の英雄は、軽やかな会話を交わす。
「ふぅ……粗方倒したかな。──ところでレオニス。遥か彼方の、あんなに遠くで、部下にだけ戦わせて自分は安全な場所で見物してるっていう、とーっても偉そうな魔族の将軍様がいるみたいだけど……。どうする?」
「ほう。なんと不埒で、そして情けない奴よな」
そして二人は同時に、遥か彼方にいる魔族の将軍へと、視線を向けた。
「──っ!?」
遠い。あまりにも、遠い距離のはずだ。
だというのに、将軍は本能でそれを理解してしまった。
アドリアンとレオニスに、確かに真っ直ぐに見つめられた、と。
全身を死そのもののような絶対的な恐怖が、駆け巡る。
もはや恐怖に声も出せず、無様に震えることしかできない。
「あそこまで出向いて、丁寧に首を刎ねてあげるってのはどう?」
「その必要はない。卑怯者の首など、この場から容易く狩り獲ってくれるわ」
レオニスの絶対的な自信に満ちた言葉に、アドリアンは、にやりと笑みを浮かべた。
「──だよな!わざわざあんな奴のために、英雄と百獣の王の貴重な時間を割いてやる必要なんてないよな!よし、決まりだ!」
結論はあまりにもシンプルだった。
「さぁ、レオニス!ここから派手に、景気良く吹き飛ばしてやろうじゃないか!」
「ああ……あの世の果てまで、な」
二人の英雄が、構えた。
その瞬間、戦場の空気が変わった。
アドリアンの全身から、夜空の星々を全て集めて凝縮したかのような、世界の理そのものを揺るがすほどの蒼き魔力が溢れ出す。
レオニスの全身からは、大草原の太陽を身に宿したかのような生命力に満ち溢れ、触れるもの全てを焼き尽くす黄金の闘気が迸る。
「──
「──
蒼と、金。
『星涙剣』から放たれたのは、星の涙が持つ世界の意志を体現した、究極の斬撃。
レオニスの拳から放たれたのは、大草原の太陽を身に宿し、全てを焼き尽くす破壊の奔流。
戦場の上空で蒼き星の奔流と黄金の獅子の咆哮が、一つの巨大な光の螺旋を描きながら魔族の軍勢へと、迫る──。
「おのれ、英雄……!おのれ、獅子王──っ!!」
魔族の将軍が、断末魔の叫びを上げる。
その声も、彼の存在も、全ては光の奔流の中へと、静かに飲み込まれていった。
やがて、光が収まった時——。
そこには嘘のような、静寂だけが残されていた。
空は洗い流されたかのように、どこまでも青く澄み渡り。大地には一本の草も一人の魔族の姿も、残ってはいない。
奇跡的な光景を目の当たりにした獣人たちが、夢でも見ているかのように、呆然とその場に立ち尽くすばかり。
静寂を最初に破ったのは、獅子王レオニスの力強い声だった。
「——勝鬨を上げよ!」
王者の号令に、隣に立つ英雄は、やれやれと肩を竦めて悪戯っぽく付け加える。
「いやぁ、それにしても、派手にやりすぎちゃったかなぁ。これじゃあ、どっちが大草原を荒らしてるんだか分かんないね」
だが、その軽口が最高の引き金となった。
二人の英雄の言葉に応えるように、生き残った全ての獣人たちから歓喜の雄叫びが天に向かって、響き渡る。
「う……うおぉぉぉ!レオニス様!獅子王様!!」
「英雄様に栄光あれ──!」
大草原に、闇は訪れない。
この地に、英雄と獅子王がいる限り——その輝きは、決して闇を許すことはないのだから。