アンの目は、凪いでいた。思い付きで言っていないことは分かっていた。それでも、黙っていることはできない。
「香月さんがこのお店をしているうちは辞めないって言ったじゃん!」
アンの部屋に泊まった日、師のように香月さんを慕う彼を見た。恩義を感じていたあの横顔に、確かな質量を感じた。抱え込む必要はないのでは、と思わず言ってしまったほどに、アンの決意は堅かった気がしたのに。
「そのつもりでした。でも、瀬野さんが入ってきたように、また人が入るかもしれない。何よりこの1か月間、俺がいなくてもどうにかなるということが証明されたわけで。……だから今日来れたんです。吹っ切れました」
やってこれたのは、香月さんが頑張ってお店を回してたからだ。麗奈さんも手伝いに来ていた。すんなり行ったように見えるなら、それは香月さんの辛抱の賜でしかない。
「全然分かってない! どうにか
ふつふつと湧き起こる苛立ちは、今にも達してしまいそうだった。奥の部屋で寝入る香月さんを見ても、まだこんなことを言うアンが許せない。
「瀬野さんも言ってたじゃないですか。『自分がいなくとも回っていくことを確認して、安心する』って」
「それは、力んでいても仕方がないってことを自覚できたら……という話で」
「俺は安心して、そのあと、ここにいるのは自分である必要がないと理解しました」
言葉にならない。どんな仕事も、自分にしか出来ないという場面は少ない。でも、自分でなくてもいいと気づいたら、アンはすぐに手放してしまうのか。
「意味分かんない。それに、ここしかないって……」
わたしは豊洲公園での話を彼に話した。
「嘘ではないです。ただ、いつまでもそうはいきません。来年、再来年と、瀬野さんはどうするつもりですか」
「そんなのまだ分かんないよ」
考えたことはなかった。お店での勤務はようやく半年を越え、やっと慣れてきたところでもある。何より、拗らせたトラウマを克服するイメージも持ち合わせていなかった。
「瀬野さんだって、来年ここにいない可能性があるんですからね。また針が使えるようになったら、早々に念願の大学病院に戻ったりして」
焚きつけるように話すアンに、困惑と苛立ちが募る。
「そんな簡単に言わないで。わたしはアンみたいに簡単に辞めるなんて言わない」
「俺だって簡単になんて言ってない。この1か月、よく考えた上で独立を考えているんです」
アンの敬語が取れかけている。互いに感情的になっては、これ以上火が燃え上がらないように自らを落ち着かせようとした。
そのとき、奥の部屋から物音がした。
「あれー。みんないたのか」
寝ちゃったわー、とぼやきながら、部屋から出てきたの香月さんだ。
アンとわたしの刺々しさがフロアに残る。先ほどの話は、香月さんの耳に入ってしまっただろうか。
「やっとアンも働く気になったのか。これで俺も楽が出来るよ」
よかった、よかった、とポンッとアンの肩を叩いた香月さんは、いつもと変わりない調子でカウンターに入って下準備をしようとした。
「もう全部終わってるんで、まだゆっくりしてて大丈夫ですよ」
「そう? ラッキー。じゃあ事務仕事の時間もらおうかな」
香月さんは大きなあくびをしながら、レジの前に行くと、その横に置いてある領収書を触り始めた。頭が働かねーな、と髪をくしゃくしゃにする。
「香月さん、わたしがやりますので」
簡単な数合わせはできる。わたしが代わりを申し出ると、香月さんは大袈裟に感謝するジェスチャーをしてからカウンター席に座った。
アンが、スタッフ用に常備している麦茶を冷蔵庫から取り出す。グラスに注ぎ、まだ寝ぼけている香月さんの前に出した。ありがとう、と口にした香月さんに、アンは何も言わなかった。
「……それでアン、独立すんの?」
聞かれていた。
アンもわたしも、息を合わせたように動きが止まる。
「考えています」
アンが返事を濁す。
こんな形で話していいことではなかったはずだ。どこからともなく申し訳なさがやってきた。
「いいじゃん。それならもう少し愛想に気を使え。今日からやれば、来年なんてもう心配いらないんじゃないか」
香月さんはいやに明るい。独立に向け、アンの足りない点をどう補うか助言する。
――話したがってる客と話したくない客を見極めろ。
――そもそも、人にもっと関心を持て。
アンに向けられたのは、バーテンダーの技術ではなく接客に関することばかりだった。そのどれもが、これまでアンの隣で香月さんがしてきたことだ。
アンは手短に返事をすると、逃げるようにトイレに消えた。その背中に、わたしはどんな声をかけていいか分からなかった。
「止めないんですか」
寝ぼけまなこを擦る香月さんに問いかける。
間延びした唸りのあとで、香月さんは言った。
「瀬野ちゃんはあいつが依存体質だって言うけど、昔から俺には執着しないんだ。むしろ俺が知るアンは、何にもさほど興味を持たない。だからこの仕事も、すぐ辞めてしまうと思っていた。こんなに続いたのも、今思えばすごい話で」
過去を懐かしむように、香月さんは年季の入ったカウンターを眺めた。寂しさが一度水面に顔を出しては、また深く沈んでゆく。
「だから、応援したいんだよ」
そう言った口元は、微かに上がっていた。