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第100話:独立

 バーでの勤務を終え、ラストまで働くふたりに見送られながら一足先に店を出た。

 苦しい。香月さんの気持ちを知るよしもなく、アンは彼の横に立っている。香月さんの視線を彷徨わせながら儚げに笑う表情が呼び起こされ、またわたしの頭に焼きついた。

 どうしたらアンに、お店にはアンが必要だとわかってもらえるのだろう。何をすればアンは香月さんの思いに気づくだろう。

 このままアンの独立に向け動いていくふたりに、この上ないもどかしさを感じる。焦燥ばかりが募った。

 電車の窓からは、深まる夜に煌々と点く街の明かりが流れていった。それも繁華街から離れてると、家々の暖色の明かりに変わる。

 状況が変化したアンの心変わりは、仕方のないことなのだろうか。


 最寄駅のホームで、わたしはアンにメッセージを送った。

――今週末、空いてる? 夜景見に行かない? この前言ってた豊洲とか。

 なんでもよかった。豊洲でのアンの話を思い出し、誘いの文章を打つ。

 返事が来たのは、翌日の日中だった。カフェ勤務の休憩時間に、スマホの通知が入っていた。

――いいですよ。じゃあお店が休みの日曜日に。明るいうちに、どこか行きたいところはありますか。

 夜景を見に行こうなんて自分から誘ったことはなかった。それだけ見るわけもなく、他の用事も考えておかねばならない。

――夕方、食事でもと思ったの。

 もうすっかり起きた時間なのだろう。返事はすぐに帰ってきた。

――じゃあ、18時にいつもの駅で。そこから向かいましょう。何が食べたいですか? 俺はなんでも。

 新着メッセージを見て、思わずため息が出る。なんでもいいと言われると、ことさら頭を悩ませた。

――イタリアンは? お台場に、眺めのいいレストランがあったはず。そんなに高くないし、ピザがおいしかった気がする。でも、タイ料理でもいいよ。こっちはレインボーブリッジが正面!

――そんなに夜景見たいんですか?

 文末に、笑った顔の絵文字が付いている。上手くいかない。こっちが気を揉んでいることも知らずに、本当にお気楽な男だった。

 カフェの昼休憩が終わるぎりぎりまでやりとりをして、日曜日はお台場のタイ料理屋へ行くことに決まった。

 約束の日は明日に迫っている。何をどう話すかも決められないまま、ふたたびカフェの仕事に戻った。



「瀬野さん」

 呼び止められて振り返ると、アンが立っていた。すでに時間は夕食時だが、夏本番に向け日は伸びていた。じゃあ行きますか、と手を取られ、まだ大丈夫ではないのだと知る。握る手も以前より少し火照る。

 アンが何かを振り切るように、「急に暑くなりましたね」と世間話をし始めた。

「夏苦手だなあ」

「なんでですか? 俺は冬よりはマシです」

 数秒考える素振りをして時間を稼ごうとしたが、いい言葉が思いつかない。

「うーん、暑さでべたべたになるし。あと、歳を取るから……?」

 ぼんやりとした返答にも、アンは聞き逃すことなく食いついた。

「誕生日近いんですか」

 大きなため息のあとで、「言ってくださいよ」と凄まれる。

 自分の誕生日なんて、尋ねられなければ答えない。自らアピールする女がいいのか? と聞こうとしたが、そういう女を彼は一番嫌う気がしてやめた。

「近いけど、あんまりいい思い出ないんだよね」

 エスカレーターでは、わたしが先に乗った。アンを一段見下げる。

「それ聞いていいヤツ?」

「別に。どっちでもいいヤツ、です」

 そう気だるく答えると、じゃあ聞かせて、と顔を寄せる。

 心待ちにされるような話ではない。興味を向ける瞳に後ろめたくなり、隣りのエスカレーターに乗る人を見た。

「進路のことで大喧嘩したのが、誕生日の食事中だったの。『そんな汚い仕事、わざわざする必要あるか?』って言われた」

ゆっくりと離れてゆく人々に、なぜこれほどだらだらと引きずっているのかを問う。

「誰に」

「父親は仕事であんまりいなかったから、こんな余計なことを言うのは母親だけ」

 わたしの愛想笑いも虚しく、アンは苦い顔をして同じように外を見た。

「どう考えててもいいんだけど、わざわざおめでたい席ですることか? と思ったら、途端にあれこれ思い出して白けちゃって」

「あれこれ?」

「そういうところが昔から嫌いだったなって。きっかけは些細なことでも、どんどん生理的に受け付けなくなっちゃった。そのうちに、誕生日は今でもあまり人といたくない。だから気にしないで」

 そのうちに看護学校に入り、勉強や実習に追われ、看護師として働くようになっては忙しさを言い訳に向き合わなかった。


「なんで親から他人にまで広がったんでしょうね」

 ふと、アンが思い立ったようにつぶやいた。

「それがわたしのなのかな。……切り離して考えればいいんだけどね。でも、『この人も母親みたいなこと言うのかな』ってチラついてさ。結局面倒になっちゃった」

 神妙な顔をするアンを見て、いい加減別の話に切り替えようと頭を捻る。こう言う時に限って、直近の勤務も落ち着いていて話すネタがない。

「いつですか」

「なにが?」

「誕生日ですよ」

 話聞いてた? と、わたしが訝しむと、アンは念のためと迫った。

「8月1日だよ。真夏も真夏。本当に嫌になる。家にこもるに限るよ。そういう日なんだと思う」

 ホームに着くと、ちょうど電車が入ってきた。「あぶな。来月頭じゃないですか。もう1か月もない」と不満が聞こえる。わたしはアンの手を強引に引いて、逃げるように電車に乗り込んだ。

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