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第101話:知らない顔

 モノレールに乗り換えたあとも、誕生日の話は出なかった。アンは、自分の話を聞いてもないことまで話した。バーを休んでいた1か月、後回しにしていた家の掃除をしたり、ちょっぴり料理に凝ったりして過ごした彼は、最近作った料理の写真を見せてきた。

「ちゃんと料理を作ると、お酒のペアリングを考えたくなりますね」

 写真には、アクアパッツァやパスタなどの洋食だけでなく、和食もあった。見切れて映るグラスの中は、どれも色が違う。

「ならないよ。家にはお酒もリキュールもないし」

 薄ら笑いを浮かべて東京湾を眺めていた。視線を感じて顔を向けると、信じられないと言いたげな顔がこちらを向いていたので、そっくりそのままをお返しした。

 美味しそうな料理を褒めながら、わたしは車内アナウンスに耳を傾ける。お台場海浜公園駅が近づき、食事をする商業施設へはこの先の台場駅で下車するように、と案内が流れた。

「俺もそんなにはないですよ。お店じゃないですから。買ってあるのはよく使うのくらいで」

 モノレールが商業施設の立ち並ぶエリアを通り過ぎた。アンも到着が近いことに気づき、スマホで時刻を確認する。

「いい時間ですね。日も落ちてきました。豊洲まで行かなくとも、十分満喫できそうです」

 そのとき、ビーーッというけたたましい音がして、モノレールのドアが開いた。多くの外国人観光客とともに、押し出されるように降りる。アンに手を引かれ、流されずにエスカレーターまで辿り着いた。


 予約時間通りにタイ料理のレストランに着くと、窓際の一番端のテーブルに通された。レインボーブリッジが大きく見える。白色灯のシンプルで美しいライトアップが、都内のビル群を背景にする。

 しかし、「綺麗」と言うのはわたしばかりで、アンは夜景をただ眺めているだけだった。料理を待つ間も、窓の外を一瞥しては何を言うこともない。電車を乗り継いで行ける距離だとしても、この景色は見ごたえがある。

「夜景が好きだって言ってたから、今日来たのに」

 運ばれてきた食事に手をつけるとき、わたしはぽろりと愚痴をこぼした。

「楽しんでますよ」

「そうにはとても。興味ないのか、反応が薄いのか」

 ジンジャエールを片手に絡む。アルコールなど一滴も入っていない。むしろクリアな頭は、人の目を気にしなくて済む隅の席でアンを暴こうと躍起になる。

「そんなもんじゃないですか、男なんて」

 目玉焼きが乗ったナシゴレンを食べながら、気のない返事をした。破かれた黄身が流れ出し皿を汚す。

「香月さん、悲しんでたよ」

「申し訳ないとは思っています」

「ううん、独立の話じゃなくて。うーん……ちょっと上手く言えないけど、自分の知らないアンの一面を見て……?」

 やはり夜景には興味がなかった。本当に驚いたアンは、目を見開くことも、持っていたスプーンを止めることもできた。

「何年一緒にいると思ってるんですか。お酒が飲めないときからですよ。あの人が知らなかったら、他に誰が俺を知ってるって言うんですか」

 アンの話はもっともらしかったが、香月さんの戸惑いと寂しさが入り混じった笑みも事実だ。

 わたしは、ふたりでゆっくり話をすることを提案した。いくら仲がいいからと言って、職場ですべてを大っぴらにはしない。腰を据えて話ができる機会があればいいと思った。

「ここ何年もないですね。仕事で毎晩顔を合わせてますから。それにあの人、バーを閉めたあとにそのまま常連さんと飲みに出たりもするので、予定が分かりづらいんです」

 数は多くないが、確かに香月さんは二日酔いまま来ることもあった。篠田さんのような大酒飲みの常連さんも何人か知っている。

「独立はまだ先だよね」

「はい、先立つものがあるので」

 このままふたりが違えていくところを、ただ指をくわえて見ていることはできない。

「あ!! あの貸切の日にすればいい!」

 レストランにいることも忘れ、大きな声を出してしまった。周囲の視線を感じて縮こまってももう遅い。

「どこかの会社の一次会が入ってたの!日にちはたしか7月末。最後の日だった気がする」

 少々トーンダウンさせて、アンにお店の予約状況を話す。

「あそこの会社は毎年決まった時期に貸切の予約をくれるんです。それこそ誰かの誕生日だとか。広すぎなくてちょうどいい店なんでしょうね。それがどうしたんですか」

「香月さんが常連さんに引っ張られない、確実な日! 早めに言って、プライベートな予定を入れないでもらえば……!」

 貸切の日は、常連さんが唯一入れない日だ。バーを閉めたあとに飲みに誘われることはないはずだ。

 わたしはバッグから急いでスマホを取り出した。指が走る。アンにも少々強引に都合を聞き、仕事を終えたら帰るだけであることを確認すると、香月さん宛てにメッセージを打った。

――7月末にあるバー貸切の日ですが、その後に予定入れないでください。夜!

 まだ日がある。すでに飲む予定があるとも思えない。勝ちの確定した状況に、肩の力が抜け、口元が緩んだ。

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