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第102話:海の底

 レストランを出るころ、わたしのスマホが鳴った。

――夜? いいよ~。でもなんかあった? もうアン辞めるって?

 心待ちにしていた香月さんからの返信だったが、思わず返信を打つ手が宙を彷徨う。

「香月さんなんて? まさかもう予定ありましたか」

 わたしの上から覗き込むアンに、一歩遅れてスマホを隠した。アンが辞めるのはまだ先だが、見られていい気分はしないだろう。しかし、画面を見られてしまった気がする。そっと見返すと、案の定、アンの唇に力が入っていた。

「……ちょうどいいです。そのまま瀬野さんの誕生日会だって言えば」

 そう言うとアンは、自分のスマホを出して、画面をタップし始めた。覗き返すと、香月さんのトーク画面が開かれている。

「アンが返信したらおかしいじゃん。今日会ってることもバレちゃうし」

 悪いことをしているわけではないのに、こうしてふたりで出歩いていることが知られるのは決まりが悪かった。しかし、わたしの注意など一切聞かず、アンは何食わぬ顔をしてメッセージを打ち込んだ。

――翌日8/1、瀬野さんの誕生日。ちょうどいいので、締めたらそのままなんかやります。

 アンがメッセージを送ると、既読はすぐに付いた。香月さんがこの瞬間にスマホを見ていると思うと、なぜか緊張する。

――知らなかったー! あぶねー!

 香月さんのアンへの返事は、それはフランクなものだった。わたしといることはもはや突っ込むほどのことでもなくなったのか、そのまま話は進んでいく。

――契約時の書類には書いてあるでしょ。よく見てくださいよ。

――未成年じゃないしなあ。でも教えもらってほんとよかった~。セーフ!

――アウトだよ。

――いや、ギリセーフっしょ。

 テンポよく進む画面上の会話を見ながら、わたしはあることに気づいた。

「ちょっと待って。これじゃわたし、自分の誕生日会を要求した人みたい」

 嫌すぎる……、と嘆いていると、アンのスマホがふたたび鳴った。

――とりあえず、予定は開けとく。瀬野ちゃんにもそう言っといて! そのまま店使う? 買い出しは火曜日に決めよ。

 メッセージは誕生日会らしきものの開催に向けて動いていた。

「でもこれで、絶対に香月さんは予定を入れませんよ。それでこそじゃないですか」

 アンはスムーズに決まるトーク画面を見せつけ、ニヤリと誇った。



 気にかけていた話がとんとん拍子で進み、夜景などどうでもよくなっていたが、アンはシーサイドデッキを駅と反対方向に歩いた。


「独立ってどうやったらできるの?」

 時刻は20時を回り、人の活気も落ち着き始めている。もうこの辺りにいる人たちの大半は、海に視線を向けていた。

「そんなお茶請けのように聞くことですか」

 ふふっと笑うと、アンは店を出すエリアや物件の確保、物品のリースなどの話をしてくれた。資金が足りなければ銀行に融資を頼まなければならないし、お店の宣伝だって今は何より大事だ。

 どれも想像に難くないが、いざやるとなれば足がすくむ。

「そこからスタッフ集めに、売り上げとかお金の管理? すごいよね、アンはそれらをやろうとしてるんだから」

 今夜の主役だったはずの夜景は、いつの間にか瞳の逃げ場になっていた。

 来年、アンは「Toute La Journée」にいない。

 香月さんのお店で頑張ると決めていた彼が、「独立」を選んでしまった。香月さんとアンが話をする時間が取れそうでも、取り返しのつかない事実は変わらない。

「……ごめん」

「謝ることなんてありました?」

 アンは不思議そうにわたしの顔を見た。

「香月さんが連絡を入れなかったのは、わたしと会って、アンが元気にしてることを知ってたからなの」

 デッキを降り、海浜公園の砂浜への道を選ぶ。歩道沿いのベンチは、語り合う人たちで半数以上が埋まっていた。

「休んでるスタッフに上司が連絡しない方がいいか、って真面目に悩んでて。そんなの気にしない人だと思ったからあのときは驚いたけど、アンに無用なストレスをかけたくなかったんだよ」

 街路灯が歩道を照らしていた。日中の暑さを避けてか、犬を散歩させた人たちと何度かすれ違う。首にライトをつけられた犬は、時折道端で止まっては、また前を向きて歩き出した。その背中を見て、アンは言った。


「本当に回らないと思ってました」


「それが1か月もなんとか行ったら、……困る」


 ただ頷くことしかできなかった。アンの抑揚の少ない声が、余計にわたしの心を駆り立てる。

 無力感に押しつぶされそうになって、わたしはアンの手を離し、海辺へ向かった。白いサラサラとした砂は、見た目から想像するより何倍も重たい。何度も砂に足を取られそうになるが、止まることもできなかった。

 波の音が聞こえる。波がたどり着くところまで足を伸ばそうとしたとき、後ろからぐっと腕を引き戻された。瀬野さんは離すんですか、と言われた気がして、自分から指を絡めた。

「……そんなに海に近づいたら危ないですから」

 アンまで言い訳するように話すので、いよいよ間が悪い。


 静まり返った暗い海を眺める。アンの傷も、自分の不甲斐なさも、すべて吸い込まれて消えてしまうことを密かに願った。

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