予兆はあった。「人間でなければ刺せるのではないか」と考え始めたのは、アンのバーテンダー修行の話を聞いたときだ。
新人は、初めからリキュールやお酒を自由に触らせてもらえるわけではない。バーテンダーはシェイクの練習をする際、シェイカーに米を入れて振る。小豆やマッチ棒を入れるところもあるらしいが、振った流れが分かるなら中身は何を入れてもいいと、香月さんは言った。
振り返れば、看護学生だったころに自分もまったく同じことをしていた。人体の模型を使って、看護技術の習得に励んだ。しかし、一度働いてしまえば、針を刺す場所は同僚の腕になる。互いに練習台になり、実際の血管の弾力を知る。そのころから模型を扱うことはなくなっていた。
針を刺すことで迷走神経反射の苦しみを思い起こしてしまうのなら、刺しても反射が起こらないものに刺してみればいい。
今の小さい、そして
心臓が正しいリズムを取り戻すのを待って、二度目、三度目と模型に針を手に向かう。一度成功してしまうと、何が突っかかっていたのかも分からないほど容易に針は進んでいった。
「えっ 刺せてるじゃないですか」
ドアの方を見ると、先ほどの女性が経っていた。壁にかけられた時計を見ると、部屋を借りた時間を5分過ぎていた。
「すみません! すぐ片付けます」
わたしは急いで立ち上がり、模型から駆血帯をバチンと外した。
「そんなことより! トラウマ克服じゃないですか……!」
破ったままになっていたアルコール綿の外袋をゴミ袋に捨てる横で、「おめでとうございます」と告げられる。
「あ、いや……これは模型なので」
謙遜が脊髄反射で出たが、今日の一歩は大きい。このまま模型で刺す練習ができれば、そのうちに人間でもまたできるようになるかもしれない。
興奮を隠すことに必死で、ゴミ袋を持つ手が震えた。
「じゃあ、わたしの腕を使いませんか」
そう言うと、女性は両腕の内側をわたしに見せてきた。薄紫の血管が張りめくる。
「おすすめは右なんです。ここの正中なんか、一番よく見える。右利きですけど、それは気にしないで。全然刺して大丈夫なので」
元看護師だけあって、たしかに彼女の言うことは正しかった。両腕をよく観察しても、わたしも彼女が言ったのと同じ血管を刺す。
「いえ、そんなことは……」
口ごもるわたしを遮るように、彼女は話を続けた。
「本当はこんなことしてはいけないんですけど、今日は特別です。だって、また病院に戻れるかもしれない、特別な瞬間ですから!」
わたしより浮き足立つ彼女は、母と同じ年代だ。こうして背中を押してくれる彼女を見ると、母と何が違ったのかを考えてしまう。
「もう1年半以上、人に刺してないんです。その状態でお借りするわけには……」
「大丈夫。こういうのは慣れが一番ですから。模型で出来たなら、どんどんやった方がいいです。今、人に刺せるのか、刺せないのかだけでも分かって帰ったら次の計画も練りやすいはずですし」
刺すそぶりだけでもしてから帰るべきだ、と彼女は強く訴えた。刺すことができても、出来なくても、どのみち収穫はある。わたしは彼女の熱意に負けて、ふたたび採血の準備を始めた。
物品はたくさん残っていた。針もアルコール綿も、模型相手にいちいち替えるのは勿体無くて、そのまま使っていた。
わたしは新しい翼状針の袋を開けた。
「はあ……久しぶりで緊張します」
「やるだけやってみたらいいですよ。大丈夫」
わたしは彼女の右腕に駆血帯を巻いた。次第に怒張し始める静脈は、もう何もしなくともよく見える。
「失敗したらすみません」
「気にしないでください。それに、どちらに転んでも前進です」
そう言ってにっこりと微笑む彼女に勇気付けられ、わたしは消毒をしたあと、血管に狙いを定めた。
刃面がこちらを向いている。そのまま皮膚に平行に突き当てて――
震える右手に、一向に皮膚に埋まらない針。何秒もそのまま動けずにいると、女性が穏やかな口調で言った。
「大丈夫。そのまま、チョンッと刺してみて」
「いや、でも」
「血管は探さなくていいです。数ミリだけ刺して肉の感覚を感じるだけ。すぐ引き返してOKですから」
何度目かの「大丈夫」に背中を押され、針先を皮膚に沿わせた。
微かに触れた人体は、まったくじっとはしていなかった。生きているもの固有の
「大丈夫。チョンッだから」
彼女は軽く刺すだけだと、何度もわたしに言い聞かせた。
「言ってみて。
「……チョン」
「そう。もう一回」
「チョン」
「そう! もう大丈夫。できます。
気を抜けばすぐに乱れてしまう呼吸は、大きく深呼吸することで誤魔化した。汗を拭い、前髪が薄っすら張り付いても気にしない。
「すぐ引き返していいですから。じゃあ行きますよ、せーの」