女性の声に合わせて、針は彼女の皮膚を潜った。
人体を刺したときの独特な感触が針先から伝わる。皮膚と並行に沿わせたはずが、手の震えで大きくぶれた。そのまま怖くなって針を抜いてしまった。
「刺せましたね!」
先ほどまで針が刺さっていた部位には、ぷっくりと小さな血液の玉ができている。今にも表面張力が緩み、弾けてしまいそうだった。
わたしは急いで準備していたアルコール綿を畳み、刺入部に押し当てた。
「すみません。抜いてしまいました」
本当であれば、もう一段階壁があった。皮下注射ならいざ知らず、採血ならば針を肉体に刺しただけではだめだ。狙いを定めた大きな静脈の血管壁を通り、血管内に針が進んでからがスタートラインだった。
「いいんですよ。最初なんですから」
わたしがそのまま押さえていたアルコール綿をサージカルテープで補強しようとすると、スタッフの女性は断った。強く数十秒抑えた傷は、すぐに止血されていた。
「見つかると厄介だから。このままで」
すみません、とわたしがふたたび謝ると、女性は手を胸の辺りで小さく振った。
ナースセンターの門を出るとき、動悸は収まっていなかった。むしろ、久しぶりに感じた人の肉の感覚に変に高揚し、刺すことができた喜びに加えて、新人のときに感じたとんでもないことをしたような気持ちが湧いて出た。こんな職にでも就かなければ、人体に針を刺すなんてことはしなかっただろう。正当な理由がなければ絶対にすることがない手技だ。
大きな鼓動が胸を飛び越え、身体全体に刻まれる。じっとりとした汗が滲む。
今すぐ誰かに話してしまいたい。ちょんっというくらいなら針が刺せたことを。
*
休み明け、一発目の勤務はカフェタイムだ。
芦谷さんの少し前に来て、お店の鍵を開けておく。今日は少し早く来てくれてもいいのに、と思いながら、一足先にランチの仕込みに手を付ける。
バンブーチャイムが鳴り、「おつかれさま」と言うテンションの低い声とともに芦谷さんが入ってきた。
「芦谷さん、実は刺せたんです。針!」
わたしは待ちきれず、芦谷さんがエプロンを身につける前に話しかけた。
「あら。よかったじゃない」
声のトーンは変わらないものの、いつもより少し大きく瞼は開いた。
「自分でも驚いたんですけど、なぜか刺せるようになっていて! 単純に時間が経ったからなのかもしれませんけど……ああ、でもまだ血管までは行けなくて」
厳密にはまだ仕事では使えないんです、としょぼくれた声で状況を説明する。
芦谷さんはエプロンの紐を背中で結び、カウンターの中に入ってきた。
「あなたも来年にはいないようね」
背側の大きな冷蔵庫を開け、小分けになったタッパーを数える。その背中を、わたしは黙って見ていることしかできなかった。
「いいのよ。アルバイトなんてみんなそうだから。あなたはそろそろ1年近くなるかしら。長く続いた方なんじゃない」
これでも褒めているのかもしれない。このイマドキ珍しい優雅な口調は、愛嬌こそないが良いところの出なのかと勘ぐってしまう。
「まだ辞める予定はないですよ」
「でも長くここにいるつもりもないでしょ」
「それは……」
久しぶりに突っかかる芦谷さんの横顔は物悲しくも見えたが、野菜室から取り出した野菜の要らない部分を切ったり、食べやすい大きさにカットしたり過程は、いつもと変わりないスピードだった。
最近は同じ目標を見ていたせいか穏やかに事が運んでいたが、なんとなく掴めないのが芦谷さんだったことを思い出した。
「もともとこんなところにいるような人じゃなかったからね。まともな看護師に戻れそうなら、さっさと辞めた方がいいわ」
そんなことを表情も変えずに言うので、わたしも反応に困ってしまった。
彼女が「まともな」とわたしに言ったのは、初対面の日振りだった。
――「今度は看護師さん? どうせまともに働いてないんでしょ。ちゃんと働いていたら、こんなところでアルバイトする時間なんてないと思うわ」
わたしを横目に、香月さんにそう訴えた。
今ではすぐ噛みつき返すこともなくなったが、芦谷さんの言いたいことはずっと変わっていなかったらしい。本質の部分で、素直にそう感じているのだろう。
「まだ、
今辞めさせられても困る。それは本当のことだった。
「雅也さんには話したの?」
「え? まだですよ。刺せたのがこの前の日曜日の話なんですから」
一番に話を聞いたことは悪い気がしなかったようで、目を細めながらも、ふうん、と言うだけだった。
「こんなに人が来るようになってから辞められたら、困るんだから。辞めることになるなら、早めに雅也さんに言って。人を補充してもらわないといけないから」
欠員になることを気にしている様子で、しきりに香月さんへの相談を促した。
わたしもバータイムの勤務になればタイミングを見て雑談で針の件は言うつもりだった。必然的に今後のアルバイト継続の件も聞かれるとは思うが、なにせまだ辞めるつもりはない。
芦谷さんは、壁に立てかけられたボードたちを見た。写真は増え、今ではすっかりボード全体を覆っている。メッセージは人を選ぶようで、増加は緩やかだったが、それを見てか、ユウちゃんのメモだけが日々微かに増えている。