翌日のクリニックは慌ただしく、眞鍋先生と話す時間は取れなかった。急ぎの用件でもないが、血管内には刺すことができていない。いつまでもナースセンターの女性スタッフの恩恵に預かるわけにもいかず、近いうちに眞鍋先生の腕を貸してもらわなければならない。採血の練習は、人の身体がいるから厄介だった。
受付の佐藤さんが、眞鍋先生からの伝言があると言った。――「赤城さんが来週から戻ってきます」
その晩のバータイムは、日中のクリニックとは正反対の忙しさだった。平日のど真ん中と言えど、いつもはもう少し客足が伸びる。
「瀬野ちゃん、なんか作ってみる?」
フロアの客がいなくなったとき、香月さんの気まぐれもここ一番に発揮される。
「いや、大丈夫ですか。わたしやったことないんですよ。家でカクテルを作るとかも一切ないですし」
慌てるわたしをよそに、香月さんは瓶をかき集めた。ドライベルモット、クレーム・ド・ペシェ、カンパリ。そしてグレープフルーツジュースとトニックウォーターを冷蔵庫から出してきた。
「これらを混ぜる! まずは一回ノリでやってみて」
「そんな簡単に言われてもできませんよ」
初めてにしては混ぜるものが多くないかと不満を垂れながら、わたしは香月さんを睨んだ。
「大丈夫! 俺もこの辺行ったり来たりしてるし。帳簿付けがあと少しだから、それ終わったら俺も同じの作るよ。それで味が変わるかどうか見てみて」
にんまりと不敵な笑みを見せると、香月さんはシェイカーとグラスをわたしの方へ寄せる。「すぐ出てくるから」とだけ残し、奥の部屋に消えた。
開けたこともない瓶たちをのぞき込み、頭を抱える。
仕方なく、わたしは香月さんが残したメモの配分でそれぞれの
「……氷?」
メモに氷と書いてある。グラスに入れるものなのか、わざわざ書いたということはシェイカーの中に入れるものなのか分からない。
帳簿はこの前も付けていたからそれほどの量はないはずだ。氷をどうするのかだけで呼ぶにも忍びない。わざわざ書いてくれたなら、シェイカーに入れるような気がしたが、何個なのかも分からない。そもそもそんな固形を入れて振っていいのか。些細なことが頭の中を巡った。
ひとまず氷は見なかったことにして、書いてあるほかの材料を入れ終えたシェイカーを閉めて、見よう見まねで振ってみた。バランスがとりづらい。身体が必要以上にくねっと歪む。軸を決めきれないまま、勢いだけはと手元をよく振った。
シェイカーから聞こえる音が、バーテンダーのふたりより頼りない。
はあ、と一丁前にため息をついて、シェイカーをキッチンの作業台に置く。ゆっくりとシェイカーの蓋を開けると、ぶわっと液体が漏れた。
「わぁっ!」
思わず悲鳴にも似た声を上げる。
向こうの部屋にいた香月さんが慌ててカウンターまで戻ってきた。
「どうしたの。なんかすごい声が聞こえたけど……」
心配そうな表情で駆けて来た香月さんだったが、キッチンの作業台を見てすぐに吹き出した。
「炭酸水まで振っちゃったか!」
自分が先ほど駆け足で残していったメモをつまみ、ただ羅列されるように書かれた材料たちを目にすると、「ごめんごめん。これじゃあだめだった」と香月さんはまた笑った。
「すみません、だいぶ溢しちゃいました……」
申し訳ない気持ちを眉に出しながら、何がだめだったのかも分からず香月さんを見つめる。
「書き方が悪かった。瀬野ちゃんのせいじゃないよ」
香月さんはまだ笑っている。よほど面白かったようで、「それにしても随分派手にやったね」と目元に滲む涙を時折拭いている。
「トニックウォーターは、シェイカーじゃなくてグラスの中で混ぜるんだよ。こんな『全部混ぜる』なんてアバウトな指示じゃだめだった。ミス、ミス」
炭酸をあんなに勢いよく振ってはだめなことくらい、教えてもらわなくとも察せないといけなかった。自分がなんととんちんかんな間違い方をしたのかを理解し、顔が熱くなる。
「懐かしいことしてくれるじゃん」
新人のバーテンもたまにやるよ、と昔話をする香月さんは、びちゃびちゃになったキッチンの作業台にペーパータオルを2、3枚放り投げた。ふわりと舞って、シェイカーから溢れ出た液体に触れたペーパータオルは、ゆっくりと水分を含んでしんなりした。
片づけを終えると、香月さんはリキュールの瓶が並んだままのキッチンに入ってきた。
「ああ、これも忘れてた」
そう言ってバスケットに入ったレモンを取り出すと、果物ナイフで2、3枚スライスした。残りにラップをかけて冷蔵庫にしまう。
そうして本来の作り方であった、炭酸のトニックウォーター以外をシェイカーに入れる。耳馴染みのある心地のいい音に聞き入る。そのうちに、グラスに注がれたのは、同じ飲み物と思えないカクテルだった。
「これはフレンチスプモーニって言うカクテルだよ」
先ほど自分が混ぜたものより、色が薄く透き通っている。氷は結構入れるものだったのかもしれないと思いながら、グラスに口を付けた。
「ん、飲みやすい」
グラスから離したばかりの口元を隠しながら、わたしは目を見開いて香月さんに感動を伝える。
「そうでしょ。アルコール度数も低くて、食前酒としても飲まれるくらい手を付けやすいお酒だよ」
すっかり客の顔をして、わたしは「へえ」と話を聞いている。香月さんはお酒の雑学を多く知っていた。入りたてのとき、感化されてお酒について詳しくなりたいと思ったこともあったが、結局半年が経過し、1年が近づいてきても、ろくに覚えていない。
「どうしたんですか、急に。お酒作らせて」
わたしにバーテンダーのお仕事は務まらないなと思っていると、香月さんがこちらを見て言った。
「瀬野ちゃん、何か言いたげだったから」
「へ?」と気の抜けた返事をする。思わず、グラスを持つ手がとまった。