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第110話:夜更けの問い

 見透かすようににっこりと悪い笑みを浮かべる香月さんに、針が刺せたことを話した。想像通り、オーバーリアクションで祝福してくれる。

「タイミングがあればと思っていただけで。話せないでもじもじしていたわけじゃないですよ、全然」

「どうだろうなっ」

 にやにやとしてからかうのは、カクテルを爆発させた後からずっと続いている。彼の変なスイッチを入れてしまったようだ。

「本当ですって。それに、針って言うのは、血管に入らなければほとんど意味がないんです。採血も点滴も、主要な手技はおおかた皮膚にさせるようになったって何にもならない。血管を刺せないと」

 何度この話をするか分からない。針が刺せるようになったと知らせた人はみな喜んでくれたが、血管を刺せなければ手放しには喜べない。

 じゃあ打ち明けなければいいのに、と己に何度も突っ込んだが、それが出来ない程度には自分も喜んでいたようだった。


 夜も更け、閉店準備の時間が近づく中で、緩やかに締め作業を始める。今日はアンが休みのため、わたしが閉店までいる日だったが、香月さんは終電で帰れるようにと早上がりさせてくれることになった。

 帰り際、わたしがエプロンを解いていると、香月さんが声をかけた。

「瀬野ちゃんは、やっぱ辞めちゃうよね」

 ゆくゆく、と付け足した副詞がふわふわとしていた。

「なんでみんなそう言うんですか。まだ何も決めていないのに」

「みんなって?」

「芦谷さんですよ。針の件は日曜日の話なんです。それで最初に話したのはカフェタイムの芦谷さんになったんですが、なぜかわたしが辞める前提で話を進めるんです。まだ仕事で使える段階ではないと言っても聞かなくて。……えっと、なんでしたっけ。ああ、そうだ。『早めに雅也さんに言って、人を補充してもらわないと』って」

 大袈裟に口を尖らせ、香月さんに訴える。

「あはは! 想像つくよ。あの人も寂しいんだって。せっかく一緒にやっていけそうだったから」

「いや、ですから、わたし辞めるなんて一言も言ってないんです。勝手に辞めさせないでください」

 うっかりしていると、勝手に退職日を決められそうな勢いだった。香月さんは、わたしのした芦谷さんの物まねがひどく気に入って、まだ頬を緩めている。

「でもさ、いつまでもここにいるわけじゃないじゃん? いや、これはもともとの話ね。瀬野ちゃんに関しては」

 気を取り直し、まじめな話をしようとする彼に、わたしは身構えた。

「それはこれから考えようと」

「いてくれる分にはこっちは嬉しいけど、せっかくの看護師免許も勿体ないし」

 勿体ない。――資格で食っていると、よく言われる言葉だ。

「そんなこと言ったって、看護師なんて5人に1人は辞めてますからね。ただ看護師として働いていないというだけなのに、『潜在看護師』なんて呼ばれて、今にも人出不足の現場に引っ張り出されそうになりながら、身を潜めているんです」

「ばれないように?」

「はい。平穏の中で暮らすために」

 他の職業で、一度その職から離れたからといって名前が付くことは稀だ。離職理由だって、育児・介護・看病、単にもう医療現場のギスギスした環境で働きたくないといったものから様々だ。

「わたしだって平穏な暮らしのために身を潜めてもいいはず」

「追われてるねえ」

 熱の入るわたしの言葉に少々困ったように、香月さんは手元の飲み物に手を伸ばした。

「でも、ほら。アンがいたら平穏には程遠いんじゃない?」

「ああ、そうかも」

 勢いはどこへやら、すっかり小さくなったわたしを見て、香月さんはまた笑った。

「今日はやけに機嫌がいいですね、香月さん」

「そう? 人が少なくて楽だったからかな。週末その分頑張らないとだけどさあ」

 香月さんこそ何か隠しているように見えたが、わたしには分からなかった。


 帰り支度を済ませ、香月さんと別れるとき、「先のことを決めたら、あと教えてよ」と言われた。お店にはふたりしかいないのに、香月さんはこっそりと言った。


 ぎりぎり乗り込んだ終電は同じような客でいつもより混んでいた。数駅だけの電車と割り切って乗り込む。

 針を問題なく扱えるようになったとして、わたしはどうしたいのだろう。

 やんわり逃げてきたことをそろそろ考えるべきだと自分を叱責する。


――病院?

 もう大学病院には、戻れないだろう。どんな顔をしていけばいいかも分からない。後輩が上司になることを、未熟な自分がどう感じるかも不安だ。

 何より、精神科でやりがいを見出し始めたタイミングに、また救急外来に戻るなんて、歯車がかみ合わないような気がした。見るものも違えば、大切にする矜持も違う。


――クリニック?

 じゃあ、今の「まなべ精神科クリニック」での勤務を増やすか。

 小さなクリニックだ。人を募集しているのかから確認しないといけない。おそらく今は、看護師は足りているのではないだろうか。常勤さんの出入りはほとんどない。今のように、仕事がないかもしれない。


――じゃあ、お店でのアルバイトを続ける?

 それは……


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