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第111話:赤城さんの退院

 アンにだけ話ができないまま、時間が過ぎた。答えも出ずにいる。

 変わったことと言えば赤城さんの訪問が今日から再開する。午前中に病院から退院し、午後一の訪問のころには家にいることになっている。


 無事退院できただろうか。

 クリニックに出勤すると、わたしは更新されていたカルテを確認した。退院するとき、クリニック宛てに入院していた病院から「サマリー」が来る。いわゆる入院病棟の看護部からの申し送りで、患者の食事・睡眠・活動状況から治療経過までが記載されている。

 タブレットの画面をタッチし、電子化されたサマリーの内容を隅々まで読んだ。

――入院加療、内服調整を行い、改善が見られたたが、別疾患の治療のため消化器外科に転科。腹部内視鏡手術施行。術後、再び精神状態の悪化見られ、精神神経科に戻る。症状回復し、11月3日退院。

 大学病院で別の疾患が見つかり、外科手術までして帰ってきたようだ。

 しかし想定より長い入院になったにも関わらず、サマリーは簡単な記録だ。どこか抜けている、完璧でない申し送りはよくある。

 分かるようで分からない。

 忙しない勤務中で、走り書きするような箇所だ。大学病院のソーシャルワーカーに電話することも頭をよぎったが、ひとまず今日の訪問で赤城さんと話してみることにした。


 しばらく通らなかった道を歩く。人通りの少ない2階建ての木造アパートは、日当たりが悪い。真昼間に電気をつけている部屋もあった。

 わたしは、赤城さんの部屋番号を確認してから、部屋の呼び鈴を鳴らした。

「赤城さーん! こんにちはー!」

 伊倉さんを真似た明るいトーンの声色は、久しぶりだった。

 何ヶ月も経つと、他人行儀でなくなる利用者ばかりだった。赤城さんだけが、亀の速度で歩み寄っていた。それも入院により途絶えた。また振り出しに戻ってしまったのか、まだ同じところで立ち止まってくれているのか、それが今日1番の気掛かりだった。

「……はい」

 久しぶりに聞こえた声は、低く落ち着いていた。訪問看護の受け入れは分からないが、病状が悪化するとふわふわと気分が高揚する赤城さんを考えると、入院の効果はあったようだ。

「まなべ精神科クリニックの瀬野です。お久しぶりです」

 ギギッと開いた玄関のドアからは、ライトグレーのポロシャツを着た赤城さんがこちらをじっと見ている。

「退院してきました」

 どうぞ、とわたしに目配せをして、赤城さんは背を向けた。

「おかえりなさい。赤城さん、少し痩せました?」

「ああ、ええ。余計なものを食べなかったから」

 進む室内は小綺麗で、部屋の隅には入院時に使っていたと見られる大きなバッグが口を開けたまま置かれている。帰ってきたばかりであることがよく分かった。

「お腹の手術もされたそうで。そちらはいかがですか」

 赤城さんに続き定位置のフローリングに座り、訪問バッグの中にあるタブレットを開いた。

「下のは少し前。もう何も注意することないんだ。傷も小さいし。まあ、あんまり覚えてない」

 術後せん妄なのか統合失調症の悪化なのかはサマリーに書いていなかったが、不調だった時期の記憶はないらしい。

 帰る場所が家だということで、また月一のデポ剤だけに戻っていた。頓服薬は出ていたが、本人が判断して飲めるかは怪しい。しばらくはデポ剤の効き目の評価が、訪問看護の重要な役割になるだろう。

 バイタルサインを測定しながら、許可を得た上で退院時に渡された書類に目を通した。

「次回は1ヶ月後ですか」

 次の受診日は消化器外科と精神神経科の2カ所に来るようにとのお達しだ。

「はい。面倒ですが行くしかない」

「そうですね。2カ所は面倒でしょうが、

 赤城さんの独特な語り口が移る。とは言え、以前よりは臆することなく話をしてくれている気がする。

「本日の体調に点数を付けるとどれくらいですか」

「7/10」

 病棟で聞かれ慣れたのか、以前よりスムーズに答えた。点数も見た感じ、大きく外れてはいないように見える。自分の体調を言い表すことに慣れたのかもしれない。

 自身の体調を評価するのは意外と難しい。10段階評価でも0〜100%のパーセント評価でも、始めは評価にブレがある。

「いいですね。入院中はどうでしたか」

「3〜7/10」

「そうでしたか。では今日は比較的調子がよい方ですかね」

「うん、はい」

 おそらく赤城さんが8以上を言うことはない。7がひとつ基準になりそうだ。


「入院中はどうでしたか」

「ハヤシダセンセイがたまに来たよ。でもすっごいたまになんだ。もう少しですね、だけ言って帰る」

「忙しいですよね、先生方は」

「前の入院のときはもっと話してくれた気がしたんだけど」

 赤城さんが林田先生を語るときは、片思いの少女のようだった。

 病院で会ったときの様子から言えば、取り立てて優しく丁寧に診てくれる印象はない。どうして赤城さんが慕っているのかは分からない。調子が悪いときの妄想も混じっているのかもしれない。

「赤城さん、今は本当に体調が戻ってきたように見えますよ。良かったです」

「そう? ふーん……」

「ええ、とっても! あとは注射を忘れずに行くだけですね」

 注射薬のデポ剤さえ、月一打つことができれば、また以前のペースで在宅生活を送れそうだ。

 わたしは、赤城さんに次の受診日をどうにか覚えていてもらうように、手帳や壁掛けのカレンダーに大きな丸印を書かせた。

「そう言えば、眞鍋院長も心配されてましたよ」

 眞鍋院長はどの患者にたいしても親身だった。林田先生とは正反対の精神科医だ。

「眞鍋先生、かあ」

 そう言って、赤城さんは何やら物思いに耽った。

「覚えてます? まなべ精神科クリニックの院長ですよ。ほら、人当たりが良くて、よく話も聞いてくれる男性の先生」

 大学病院を退院して家に戻ってからは、クリニックの眞鍋先生が主治医になっていた。赤城さんは調子が悪いとそのことも忘れてしまうが、今はどうだろうか。

「覚えてる。嘘をつかない人。……林田先生や瀬野さんとは違う」

「……わたしですか?」

「瀬野さん、初めて家に来たとき、ハヤシダセンセイを知ってるって嘘ついたでしょ」

 余計な音がしない、ふたりだけの部屋に、なんでもないことを話したような赤城さんと、バツが悪くなったわたしだけがいた。

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