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第112話:あの日の嘘

「ごめんなさい」

 わたしはとっさに謝った。


――「セイシンシンケイカのハヤシダセンセイ、知ってる?」


 伊倉さんとの同行訪問で初めてこの部屋を訪れた日、そう聞かれて、「はい。少しだけ」と嘘をついた。

 なんとか部屋に入れてはもらえたものの、嘘をついてしまったことをずっと引きずっていた。そして、その嘘に赤城さんが気づいていたことを知る。

「別にいいです」

 当の本人はしれっと、わたしが広げた薬袋を片付ける。頓服薬は机の脇のフックに引っ掛けられた。病院のように促されれば飲むことができるが、自分からは飲めない。きっとこのレジ袋は、訪問で異変に気づいた看護師が開けるまでぶら下がったままだろう。


「どうして家に入れてくれたんですか」

 意を決して、わたしは赤城さんに聞いた。伊倉さんへの信頼から、嫌々入れてくれたのかもしれない。あるいは前いた大学病院の名前を出したことで、変な看護師ではないと多少は感じてくれたのか。

「言った通り。瀬野さんはハヤシダセンセイと一緒。似てる」

「はい。それがどういう意味なのかなって……」

 入院を経て、赤城さんの表情筋はまた硬くなった。

 しかしこれが本来の彼だ。お世辞にも目つきがいいとは言えないが、体調が悪いときとは明確に違う瞳の色、口角の上がり、背筋の曲がり方は、どれをとっても普段の赤城さんだった。

 だからこそ余計に、この先の言葉が気になる。

「そのままです。ハヤシダセンセイと同じ感じがした」

 そう繰り返す彼は、わたしの表情を見るなり、「嘘をつかない人を信じるわけじゃないでしょ」と言った。



 1日の訪問を終え、クリニックへ戻った。

 今日は赤城さんの退院後すぐの訪問だ。眞鍋院長に本人の様子をお伝えしたい。

「お疲れさまです」

 クリニックの受付で佐藤さんと軽い挨拶を交わすと、診察室から院長が出てくるのを待った。

 タブレットで入力できるのは便利がいい。訪問中に書けるところもあるし、クリニックに戻ってもパソコンの取り合いにならない

 最後の利用者の記録を書き終えたころ、ちょうど診療を終えた眞鍋院長が診察室から出てきた。急いで捕まえようと休憩室のイスから立ち上がると、イスの足が床を擦ったズズッという音に、院長は体の向きを変えた。足音が近づいてくるのだ。そして休憩室の入り口からひょいとこちらを覗き込む。わたしが中で記録しているのを見ると、部屋の中に入ってきた。

「赤城さん、いかがでしたか」

 長い白衣の裾がなびいた。

「お元気でした。以前の調子に戻っていて。食事はまた宅食も今晩から再開の予定です。カルテにあった消化器のオペの件は、もう日常生活には影響なく。消化器外科、精神神経科、ともに1ヶ月後再診になっています」

 必要な情報を端的に伝える。家で暮らしていけるかが何より重要だ。食事の手配は、相談支援員さんが主でやってくれる。看護師はといえば、例えば手術創の痛みでお風呂が入れない、可動域制限があり棚に手が届かないなどがないかを見る。内服は頓服薬だけの赤城さんにはさほど問題にならない。

「そうでしたか。よかったですよ。瀬野さんもお疲れさまでした」

 眞鍋院長はそう言うと、先程より大きく白衣を揺らし、また入口の方に戻っていく。

 わたしは慌てて彼を呼び止めた。

「……嘘が、バレていたんです。赤城さんに」

 忙しいのは明白で、こんな雑談をする時間が眞鍋院長にないことは分かっている。でもどうしても聞いてもらいたかった。院長から示唆を得たかった。

「嘘、というと?」

 やはり眞鍋院長は止まってくれた。また休憩室の入り口からひょっこりと顔を出し、嘘という言葉の続きを待っている。

「初回訪問のとき、赤城さんに林田先生をしっているかと聞かれて、『はい、少し』と言いました。本当は知らなかったのに」

 わたしは伊倉さんと行ったあの日の訪問の話をした。林田先生を知らなかったのに、玄関先で「知らない」と突っぱねては、部屋に入れてもらえないような気がしたことを言い訳がましく添える。

「瀬野さんはあちらの大学病院出身でしたね。でも大きな病院では知らない先生も大勢いるでしょう」

 眞鍋院長がわたしを責めることなかった。

「赤城さん、わたしを林田先生と似てると言ったんです」

「似てる? そうなんですか? お手紙は書いたことがありますが、直接会ったことはないんですよ」

 わたしが「全然似てないです。向こうはぶっきらぼうなおじさんですし」と口を尖らせると、眞鍋院長は困ったように笑った。


「赤城さん、『嘘をつかない人を信じるわけじゃないでしょ』って言ったんです」

 いつまでも忙しい眞鍋院長を捕まえておくわけにもいかない。わたしはさっそく主題に切り込んだ。

 眞鍋院長は一瞬目を丸くしたが、すぐに「そうですか」と言って小さく笑った。

「どういう意味だと思いますか」

「赤城さんにとって、信じたい人は正直な人ではなかったということです」

「分かりますよ。分かるんですけど……いまいちピンと来なくて」

 眉を八の字に下げ、口を結ぶ。

 その様子を見て、眞鍋院長は赤城さんの訪問看護導入の経緯を話した。

「赤城さんは幻聴がひどかったときに他人から理解を得にくく、そのうちに近隣トラブルになって入院になった経緯があります。そんな彼にとって、林田先生は入院してすぐに出会った、自分の主張を信じてくれた人なのでしょう。『嘘をつかない』というのは、彼にとって二の次なのかもしれません」

 嘘をつき、なんとか部屋に入ることを許された。玄関の敷居を跨ぐ直前に言われた伊倉さんの言葉が頭をよぎった。

「伊倉さんも以前、赤城さんは『自分のことを分かってくれる人に来て欲しい』と言っていました」

「真実を告げる人よりも、自身の言動を認めてくれる人を求めている。統合失調症という疾患の苦しみのひとつでしょうか」

 分かりませんけどね、と眞鍋院長は流した。

 互いにどこを見るでもなく、視線を彷徨わせる。煌々とつく部屋のLEDライトが浮いていた。


「それに林田先生と瀬野さんは、やはりどこか似ているのかもしれませんよ。大学病院の雰囲気を感じたとか。という点に、より一層力を注いでいる姿勢が滲み出ているのかも」

 ふふ、と笑みをこぼすと、眞鍋院長は「思いがけない方法で訴えていることもあるんですね」と言った。軽く会釈し、部屋から出ていった。

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