人間の行動はすべてが理路整然としているわけではない。直感的なお告げも、傍から見たらくだらないこだわりも、本人にしてみれば大真面目な話だ。
――「思いがけない方法で訴えていることもあるんですね」
赤城さんだけじゃない。どの利用者も、どんなお客さんもそうだった。
「いらっしゃいませ。まだ開店前なんです……って、あ」
芦谷さんも出勤してないカフェの開店前にやってきたのは、ユウちゃんだった。これまで彼が、明るい時間にお店にやってくることはなかった。以前より伸びた前髪は目元を隠していた。一瞬誰か分からなかったが、見慣れた背丈と、不貞腐れたような顔つきで気づいた。
「これ、翔子さんが持っていけって。日持ちしないからって」
ユウちゃんは、どこかの地域のお土産を手渡してきた。確かに賞味期限は明日の日付になっている。
「わあ、ありがとうございますって伝えておいて。これどこのだろう」
「北の方の田舎。昨日返ってきたんだけど、クリームが入ってるからさっさと食べないといけないらしい。今週は篠田さんも忙しくて、多分バーに行く余裕ないから」
紙袋をのぞき込みながらわたしは、おいしそうなお菓子の写真に目を細める。そんなわたしをよそに、ユウちゃんはそそくさと足先をドアに向けた。
「ああ、待って。お礼にクラフトコーラ出すから飲んでいきなよ。お昼のドリンクのイチオシなの!」
クラフトコーラの売れ行きは好調だった。特にこの前までの夏はよく注文が入った。炭酸の爽やかさだけでなく、夏バテで体調を整えたいとスパイスに目が行く人は多かった。
わたしはシロップの瓶を開けた。いつも一番に香るのはシナモンだった。
「へえ。こんなところから作ってんだ」
カウンター席に座ったユウちゃんは、瓶の中のシロップをまじまじ見つめた。何が入っているのかと聞いてきたので、香月さんから教わったスパイスの話を得意げに伝える。彼はまた「へえ」とだけ言った。
「飲んでみて」
「ありがとう、……ゴザイマス」
グラスにストローをさして、ユウちゃんの目の前に置いたコースタ―の上に置いた。ぎこちないお礼が返ってくる。23歳の男の子は、こんなにも不器用で可愛らしいものだろうか。
アンとは4つ違う。そう考えると、アンは年相応に落ち着いている。ちょっと慣れた振る舞いもしてくるから可愛くない。
「おいしい?」
「ン。ハイ」
短い返事は同意のようだった。すでにグラスの中は三分の二ほどに減っている。わたしは少ない言葉の中でも安堵して、開店準備の続きに戻ろうとした。あと5分、10分で芦谷さんも出勤してくる時間だ。
「そう言えば、あのメッセージはどういう意味なの?」
前も一度聞いてはぐらかされた。
そのあとも、ユウちゃんの謎のメッセージシリーズは細々続いている。もう5枚ほどになっていた。コルクボートは酔っ払いの戯言から、具体的な誰かへの告白まで思い思いのメッセージが貼り付けられていた。名前を書かないので、基本は誰が書いたものかは分からない。でも、ユウちゃんの字を覚えてしまったせいで、その後も気付いたら増えている謎の文章に注意を持っていかれる。
「ここに来る前にいた施設が、そんな感じのところで」
「施設?」
「俺、児童養護施設育ちなんですよ」
急な告白に、わたしは言葉に詰まった。「ああ、ごめん」とまごついて、拭いていたお皿を落としそうになると、ユウちゃんは「別に」と言いながら、それを冷めた目で見た。
――「木漏れ日と猫のしっぽ」
――「いちょうの木に括られたブランコ」
ユウちゃんは、こっちに出てくる前に暮らしていた児童養護施設の情景を描いていた。
園庭の隅をいつも通り、子どもを見つけると寄り付いている猫がいた。その園庭は太い銀杏の木があり、ユウちゃんが小学5年生のころに当時の男の先生によってブランコが括りつけられた話をしてくれた。
「……向こうに帰りたいの?」
「まさか」
こちらが恐る恐る聞いたのに、ユウちゃんは蔑むような目で即答する。確かにユウちゃんほどの年齢では、いくら生まれ育った場所と言えどそこに
「よく分かんない子だよね、ユウちゃんは」
「瀬野さんでも分かんないんですね。よかった」
何が良いのか分からない。わたしは首をわざとらしく傾げながら、昼に出すサラダの野菜を千切った。
「どうして施設のことを書こうと思ったの?」
分からないなら聞くしかない。
篠田さんたちが横にいないと、なおさら彼の振る舞いは幼い。ストローに口を付けてドリンクを飲む姿は、まだティーンのようだった。
「瀬野さんが言ったんじゃないですか。願い事を書いたらいいって」
「そうだったっけ。……でも、なんで『願い事』で」
コルクボードを設置したとき、運用方法については特に決めていなかった。誰かの思い出作りになればと始めた。それがどう作用しているかは知る手段はないが、誰かの巡り合わせを助けていたらいい。言えなかったことをメッセージに残し、綺麗に飾ったっていいと思った。
「芦谷って人、ここで働いてるでしょ」
「うん。知り合いなの? もうすぐ来ると思うよ。いつも決まった時間に出勤してくるから」
わたしはお店の中にある時計を指差した。早く来ることは決してないが、絶対に遅れてくることもぎりぎりに来ることもない人だ。
それを伝えると、ユウちゃんは急いでクラフトコーラを飲み干した。
「俺のことは内緒ね」
また今度話す、とだけ言って、急いで帰って行った。