2週間ほど過ぎたころ、篠田さん夫婦とユウちゃんがバーにやってきた。遅めの夕食を他所で取り、バーのお客がちょうど入れ替わるタイミングだった。夜も深まっている。
久しぶりになったことを香月さんにいじられ、篠田さんは仕事が忙しかったことを釈明する。
「いつ振りだ? こんなに開いたことはなかったんじゃないかな」
冷静に振り返る香月さんを前に、カウンターを挟んで篠田さんの隣に座る翔子さんが「そうね」と相槌を打つ。
「久々だ。トラブったわけじゃないのに、なんだかこんなに……どうだ、ちょっと痩せたか」
「嘘だろ。そんな腹して」
恰幅のいい篠田さんは、わたしから見ても以前と変わりない見た目をしている。香月さんはお腹に視線を向け、眉をぐっと引き上げた
。
香月さんと篠田さんが馬鹿話をしている間、アンがさっと飲み物を準備する。
ライムを添えたジントニックを篠田さんに差し出し、続いてジンジャエールを翔子さんのコースターに置いた。
カウンターは、香月さんとアン、そして篠田さんと翔子さんの4人で話に花が咲く。これまでもこうしてきたのだろうと思うと、ユウちゃんの表情の浮かなさが気になった。アンも少しはユウちゃんを気にかけてやればいいのに、ユウちゃんが返しやすそうな話を振るでもなく、篠田さんの豪快なトークに静かにビジネススマイルを向けるだけだ。
この前の話でもしていた方がまだ彼もつまらない顔をしないだろう。
アンの胡散臭い微笑みを横目に、わたしはユウちゃんをカウンター後方のテーブル席に連れ出した。ユウちゃんは、「今ですか」と気怠い表情を見せたが、大人しくジンジャエールが入ったグラスと自分のコースターを両手に、席を立った。
「ユウちゃんってさ、もしかして広島出身?」
「そうですけど。あれ、言ってましたっけ」
怪訝そうな表情をする彼とは対照的に、わたしは点と点が結ばれてすっきりとしていた。
「でも考えてみればそっかあ。篠田さんも広島の人だし。なんだ、みーんな広島!」
頭の中の問題が解決し、ひとりごとをペラペラと話すわたしに、ユウちゃんは「広島の人なんて、こっちにそうそういないでしょ」と言った。
「うん。でもいた。……ユウちゃんは、芦谷さんがいた施設で暮らしてたんだね」
ふと目の前の表情が硬くなる一瞬を、わたしは見逃さなかった。
不躾かとは思ったが、彼が芦谷さんの名前を口にした日から、ふたりは会うべきだと直感が言っていた。
「今度お昼においでよ。芦谷さんに何か言いたいことがあるんでしょ」
ユウちゃんは黙っている。こういうとき、彼は絶対に正面を向かない。それが妙に子どもらしく見える所以かもしれないと密かに思った。
彼の
わたしは、彼が話し始めるまでじっと待った。話の間を埋めようとついしゃべりたくなる。そこをじっと我慢して、彼の斜めの席からそれとなく気配を消して座る。
「……退所するとき冷たくされて。それに圧倒されて。何も言えないままになった。俺も同じく素っ気ない態度を取ってしまって。それで終わり」
この先を言うことはなかった。どうしたいか話さないものの、心残りがあることは明白だった。しかしそれ以上に、なんだかこの前の自分を見ているようで、わたしは思わず、ふふ、と笑った。
「なに。笑わなくてもいいじゃん」
むくれるユウちゃんに慌てて弁明する。
「ああ、違うの。いやあね、芦谷さんって昔からそういう人なんだ、と思って」
さすがに気になったのか、ユウちゃんは「今もなんですか」と言ってこちらを向いた。
「うん。この前、わたしがここを辞めるかもしれないって話に……なってないんだけど、そうなったときにね。香月さんに早く言って、人員補填してもらわないとって言ったのよ。いくらわたしがまだ辞めるか分からないって説明しても、『あなたはずっとここにいるような人間じゃない』ってだけ言って突っぱねるの」
人不足になっては大変だ。芦谷さんのもっともな主張が、なおさらきつい言い方を正当化している。
「そう言えば、芦谷さんと初めて会ったとき、『今度は看護師さん? どうせまともに働いてないんでしょ。ちゃんと働いていたら、こんなところでアルバイトする時間なんてないと思うわ』って言ったの! ひどいよねえ」
彼女に思いを馳せると、初めの時期によく突っかかっていたことばかり思い出される。もちろん一方通行ではない。両方からの行き来があってこそ、争いは成立する。
ユウちゃんは目にかかる髪をすっと払った。
「イメージできる。瀬野さんは、本当は看護師さんなんだっけ。確かになんでここに、とは思うけど」
「うん。今も働いてるよ。掛け持ちで少しだけ。なんでここにと言われるとまた複雑なんだけど……まあ、こっちのアルバイトも好きなの」
口に出したことで、自分がこのお店に愛着を持っていることを自覚した。
雇ってもらったばかりのころは、針が刺せるようになったらすぐに辞めるとばかり思っていた。しかし今では悩んでいる。すっかり手放すことが惜しくて、悩みに答えることを保留にしている。
ユウちゃんがバーのボードにメッセージを書き始めたのは、「他に感謝を伝えたい相手が思いつかなかったから」という突発的なものだった。そのままだらだら書いてしまったようだ。何を目指しているわけでもなく、ただ宛てのない、未消化な思い出を小さな色紙にしたためた。
そのとき、カウンターに座る翔子さんがこちらを向いた。
「ほら、ユウちゃん。ラストオーダーの飲み物、もうアンくんがくれるよ。それともそっちで飲む?」
翔子さんは、わざわざ大きく背中を反らせてこちらを向いている。
「取りに行きますから」
ユウちゃんが「置いててください」とぶっきらぼうに伝えると、翔子さんは寂しそうに笑ってカウンターの方へ直った。