姫乃の新入社員時代。御曹司とだけあって、既に配属部署が決まっていて、あちらこちらへと動き回る令と違い、まだ決められた部署はなかった姫乃はまず事務や雑用といったものを教えられていた。それは基本的にはどの新入社員も通る道で、男性、女性と関係なかった。
だが、当然のようにそこにも個性や優劣は出てしまう。
姫乃にとっては当たり前に出来ることしかなかったが、難しいと感じる社員もいて、四月中に辞めていく人がぽつりぽつりといた。
それを横目で見ながら、姫乃は不思議そうに思った。
どうしてこんなことも出来ないのだろう。
「私は何でも出来るように努力してきたのに、あの人達は何をしてきたの」と……。
姫乃は何でも一人でやれていた。それは、周りが驚くほどに。誰の手も借りず、マニュアルを一度読んだらすぐに出来るようになる。教えられたら、わからないところだけ質問し、答えが返ってきたら覚えられた。
姫乃からしたらたったそれだけのこと。
周りからしたら、羨ましい……というよりも、凄い出来る人だと尊敬する人がたくさん出てきた。
それは同僚に限らず、先輩、上司も同じことだった。
尊敬とまではいかなくとも、一目置く人ばかりで、姫乃はあっという間に期待の新入社員から、仕事が出来る驚異の新入社員と噂されるようになる。
しかし、それさえも、姫乃にとっては当然のことだった。
特別なのが普通。皆が自分をちやほやするのが当たり前。だからこそだった。
姫乃のプライドを傷つけられることが起きるのは……。
この会社に入って数日。仕事が終わって、更衣室で着替えようと入口の近くまで来た姫乃が、その更衣室の中で姫乃について噂をしている声を聞いてしまった。
「あの姫乃って子、あざとくない……? というか、何でも出来すぎて、怖い」
え? と姫乃は思った。
「そうよねぇ。何を教えても全部覚えるし、ちょっと不気味なくらい、優秀よね」
「出来すぎた人間って本当に怖いんだね」
完璧すぎるのも……問題、か。少し計算して失敗するべきだったかも。
そんな風に思ったが、今更そんなことをするのは姫乃のプライドが許さなかった。
だからこそ……。
「というか、何もしてないのに、出来るのってずるいですよね」
この言葉が許せなかった。
姫乃は何もしないで何でも出来るようになったのではない。努力をし、一回で覚えるということを徹底してきたのだ。何もしていないわけではない。
それも、この口ぶりからして、恐らく相手は先輩辺りだろう。
出る杭は打たれるのだろうか……。
「もう少し、失敗とかあれば人間味があって可愛いんですけどねー」
そんな言葉を聞いた姫乃は、心の中で自分というものが傷つけられたような気がした。
プライドなんてものじゃない。姫乃自身を、傷つけられたのだ。
求められてきた「完璧」に応えるために必死になってきたのに、それが可愛げないなんて言われるとは、思ってもみなかった。
でも、可愛がられたい。自分を、好きだと言ってくれる人がほしい。
そう思った姫乃は、今後わざと失敗をしようかと思いかけて、すぐにその選択を捨てる。
そんな無駄なことをして、私が本当に幸せになるはずがないと。
でも、だったら、愛される自分はどんな自分なのだろうと考えた。
学生時代はちやほやされた。当然のことながら、その学校という枠組みの中で、令と並んでいたこともあって皆が一目置いてくれた。優菜という共通の劣等生もいたことだし……。
だが、ここでは、社会では違うのだと姫乃は気づかされた。
途端に、姫乃は怖くなる。まるで自分がどこにいるのかわからなくなってしまったような、そんな感覚に襲われたのだ。
そして、自分の作りあげた自分が、どんどん水底に落ちていくようで、怖かった。
昔から、この世界は自分の味方だった。それが、社会人になった途端、何事も自力で頑張らなければいけないような気がした。
——この世界は、私の味方じゃないの?
そう思った姫乃は、少し考えてから、明るい声を出して更衣室に入って行く。
「お疲れ様です」
そして姫乃はその日、家に帰るとベッドに座り、ぱたりと倒れる。
仰向けになると、窓から入って来る外の月の灯りがぼんやりとあって、綺麗だった。
そうか。……私は、迷子なんだ。
世界に見放されたわけでもない。
ただ、ちょっとだけ、迷子なんだ。
私はここに在る。ここに……居る。そのはずなのに。
これは試練なのだろうか。孤独から、また誰かに囲まれるような、そんな日々は来るように、また、努力しなければいけないのだろうか……。
でも、それさえすれば、また私は周りを味方に出来るの?
きっと、あと少しすると、優菜も同じ会社に入って来る。
コネ入社で。
許せない。許せるわけがない。
だって、私はこんなに努力しているのに、あの子だけ努力なしでどんどん上り詰めるなんて、おかしな話だ。
「じゃあ、私があの子にいろいろと、教えてあげられるようにならなくちゃね」
小さく呟いた言葉は、まるで呪詛のようだった。
「私の居場所を作ること。それが、今私がやらなければならないことだわ……」
寂しさを、優菜への憎しみに変えて。