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第5章 縮まる距離

第73話 変化

 それから私たちの間に少しだけ変化がおとずれた気がした。

 名前で呼び捨てにするようになって、湊君との距離感が縮まったように思う。

 それに、密着してくることが多くなったような。

 私はお風呂を出ると必ずキッチンで水を飲む。

 その時はたいてい湊君は仕事をしていて手を止めないんだけど、あの日から湊君は二日に一度は手を止めて、私と話をするようになった。

 十月の終わり。

 その日もお風呂を出ると湊君がやってきて、ソファーに並んで腰を掛ける。

 室内はダウンライトがついているだけで薄暗く、湊君の使うパソコンが置いてある所だけが明るい。

 私も湊君も明るいのが好きじゃないから、自然とダウンライトばかりになるのよね。


「十一月三日のチャリティーイベントなんだけど、いっしょに来てくれる?」


 相変わらず私の様子を窺うように言い、顔をじっと見つめてくる。

 特に断る理由もないし、興味がないわけじゃないから私は頷きながら言った。


「いくいく。楽しそうだし。フリマとか出店とかあるんでしょ?」


 そんなようなことがポスターに書いてあったような気がする。

 オークションに参加はできないだろうけれど、出店などがあるなら私でも買い物できるし楽しめるだろう。

 野外ステージで手品や漫才もあるってあったし。

 湊君は嫌そうな顔で頷き、


「うん、そうだよ。誰でも参加できるイベントだからなおさら嫌なんだよね」


 と言い、ため息をつく。


「何が嫌なの?」


 人前に出るのが嫌だ、というのは何度か聞いたけれどその理由はちゃんと聞いた記憶がない。

 だから聞いてみたんだけど、湊君は視線を下に向けて押し黙ってしまう。


「目立つのが嫌だしそれに……名前を出されているから俺に会いたい人間が入って来るかもしれないって事でしょ? だから嫌なんだ」


 そうか、変なメールがくるって言っていたっけ。

 湊君は今、ストーカーにあっているわけだし。本人はたいして気にしている様子はないけれど。でももともとよね、人前に出るのが嫌なのって。ということは他の理由があるって事?

 そこで私は、この間の試写会で見かけた女性の顔を思い出す。そして、綾斗が言っていた母親の話……

 あの人の話からすると、母親と綾斗は交流があるみたいだけど湊君は全然交流がないのよね。その理由は湊君が拒絶しているからだろう。言葉の端々から嫌っているのはわかる。

 そもそも湊君は孤児院で過ごした時期があって、お母さんの弟さんに引き取られたわけよね?

 それを考えたら母親に会いたくないと思うのは当然か。

 でも孤児院に入ったのは何でなんだろう?

 これは、足を踏み入れていいんだろうか。さすがに躊躇してしまう。だって知られたくない過去は誰だってあるだろうから。

 恋人として過ごす、っていっても私たち、本当の恋人じゃないからな……

 踏み込んじゃいけないラインはあると思う。

 湊君は黙りそして、私の肩にもたれかかってきた。

 それくらいどうってことのないことなのに、変に意識してしまう。

 私、今たぶんきっと、顔が紅いだろうな。こんなことで恥ずかしがっててどうするんだろう。

 こういう時、どうしたらいいのかなぁ。うーん、全然わかんない。

 悩んでそして、結局何にもできなくて私はそのままじっとしていた。

 室内に流れている音楽はジャズ、かな。

 可愛いキャラクターが一所懸命勉強している動画がエンドレスで流れている。

 互いに黙り込んで、なんとなく気まずい時間が流れていく。

 私は考えてそして、


「イベント、断れなかったの?」


 と、わかりきった質問をぶつけた。


「さすがに無理だったよ」


 ですよね。ポスターに名前印刷されてしまっていたし、湊君を目当てで来る人……ファンもいるだろうから。

 そうか、湊君、ファンがいるのか。

 そうよね、わりと名前が知られているイラストレーターなんだから。

 そう思うと不思議な感じがする。


「そっか。ストーカーのこともあるからちょっと心配だな」


 そして私は水を飲む。


「そっちは……そうか、それ考えてなかったかも」


 ハッとしたような声で湊君は言い、私は内心苦笑した。

 ってことは違う理由があるって事よね。やっぱりお母さんのことなのかなぁ。

 でもそのことに触れる勇気はないから、私はストーカーの話題を続けた。


「ほらストーカーって何をするのかわからないじゃない? それこそ刺されるようなこともあるでしょ。だから心配するよ」


 そう私が言うと、湊君は顔を上げてこちらをじっと見つめる。


「そうだね。危ない目にあったんだからそうか、心配になるんだね」


 なんて呟く。

 はいそうです、心配になります。

 私のことには敏感に反応するのに自分のことになると鈍感になるのね。

 そういうものなのかなぁ。


「当たり前でしょ。ストーカー、ほんとうに怖かったし。それに殺されるような事件もあるじゃない? ああなったら嫌だもの」


「そうだね。刺されるのはもう嫌だな」


 そう、小さく呟いて湊君は突然私の首に腕を絡めてきたかと思うとぎゅうっと抱きしめてきた。

 ちょ、ま、な、なに? どういうこと?

 混乱していると湊君の鼓動が早く、息遣いも荒いことに気が付いた。

 あれ、なんだろう。明らかにおかしいような……


「だ、大丈夫?」


 戸惑いつつ私は湊君の腕に手をそっと触れた。


「うん、大丈夫だよ。ちょっと思い出しただけだから」


 そしてすぐに湊君は離れていってしまう。

 この話は湊君のトラウマに触れるような話だったらしい。

 いったい何があったのかな。

 いつか話してくれるのかな。

 いや、私がそれに触れてもいいのかな。

 きっとこの問いに答えなんてない気がした。

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