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第75話  夕食とそして

 十一月の夕暮れはあっという間にやってくる。日が落ち始めると肌寒く感じ、通りを歩く人たちの多くが背中を丸め早足で歩いている。

 千代と別れた私は、家を出る前に撮った冷蔵庫の写真を見ながら、今日の夕飯をどうするか考えていた。

 湊君は帰りが遅い、ということなので私が夕食を作ることになっている。

 うーん、あんまり余りものがない感じだなぁ。

 大根と、お豆腐の姿が見える。昨日、揚げ出し豆腐だったっけ。

 面倒だし寒いから鍋にしようかな。白菜とお肉買って。ここには映っていないけど長ネギはあったはずだし。

 私はスーパーに立ち寄って買い物をした後、ひとりマンションへと向かった。

 駐車場にまだ湊君の車はない。

 まあそうですよね。

 太陽はかなり姿を隠してしまい、辺りを闇が支配しつつある。私はマンションの入り口に近づき、ふと、後ろを振り返った。

 なんだろう、この感じ。肌がひりひりするような……

 辺りを見回しても、通りを歩く人や車しか見えない。そもそも暗いからよく見えない。こういう時間ってたしかたそがれ時っていうんだよね。すれ違う人たちの顔が見えにくい時間。だから余計、誰かが潜んでいたとしてもわからないと思う。

 誰かに見られているような気がしたんだけど気のせい、かな?

 隠れる所はある、といえばあるしな……

 うーん、湊君、変なメールがくるって言っていたし、なんだか嫌な感じ。

 個人情報なんて探偵を雇えばわかるもんね。って、嫌なこと思い出しちゃった。

 気のせいかも知れないし、早く中に入ろう。私は首を横に振り、足早にマンションの入り口へと向かった。




 土鍋に材料を入れ、ぐつぐつと煮込んでいると玄関ドアが開く音がわずかに聞こえた。

 あ、帰ってきた。

 私はそわそわとして、扉が開くのを待つ。

 ガチャリ、と音がして私は、


「おかえり!」


 と、声をかけた。


「ただいま、灯里ちゃん」


 湊君がそう答え、こちらにやってくる。

 そしてコンロにかけられた鍋を見る。


「夕飯鍋?」


「うん。寒いからさー」


 そう答えて私は豆腐を投入した。

 ぐつぐつと煮える鍋を見つめ、私はあの視線の事を思い出した。うーん、姿を見たわけじゃないから話すのはためらわれてしまう。

 でも気にはなるのよねぇ……


「……ちゃん、灯里ちゃん?」


 突然肩を揺さぶられて私はハッとして振り返る。

 湊君が不思議そうな目でこちらを見つめ、私の肩に手を置いていた。


「え、あ、え?」


「鍋、そろそろいいんじゃないかなって思うんだけど」


 言われて私は慌てて鍋に視線を落とす。

 ぐつぐつと煮える鍋を見て、私はかちり、IHのスイッチを押した。


「ごめん、ぼうっとしてた」


「そうみたいだね、何か気になる事、あるの?」


 言いながら湊君は私の顔を覗き込んでくる。

 そんな真面目な顔をして見つめられるようなことは全然ないんだけど。そもそもあれは気のせいかもしれないし。

 私は笑顔で首を横に振り、


「なんでもないよー」


 と答えて、鍋つかみを手にはめた。


「だから大丈夫。ねえご飯にしよう。あ、鍋しき」


「もう用意してあるよ。俺、ごはんよそうね」


 湊君に言われて私はカウンター越しにテーブルの上を見る。するとそこには鍋しきや器、コップなどが置かれている。いつの間に……私、そんなにぼうっとしていたのかな。

 湊君がご飯をよそい、それをテーブルの方に運んでいく。

 ちなみに食事用のダイニングテーブルはまだない

 私もそんなに長く一緒に暮らすつもりはないから、買おう、って提案しないままだ。うーん、年明けには引越ししたいな。年末にはボーナス出るし。

 いつまでもここにいるわけにはいかないもんね。

 その話をしよう、と思いつつ、私は鍋を運びソファーに腰かけた。

 すっかりなじんだソファーでの食事。

 ひとり暮らしになったらきっと座卓になるだろうなぁ。

 鍋の蓋をとると湯気が上がる。


「いただきまーす」


 声をそろえて言い、私はお茶碗を手に持った。

 湊君がお玉で鍋の具をよそうのを見つつ、私は彼に言った。


「ねえ湊君」


「何?」


「あのね、もうすぐ年末でしょう。そうしたらボーナスでるから、年明けに引越しをしようと思ってるんだけど」


 何気なく言った言葉だった。なのに、空気がピーン、と張りつめたような気がした。

 なにこれ、どういうこと?

 驚いて私は横を見る。

 湊君はお玉を持ったまま大きく目を見開いてこちらを見つめ、完全に固まっている。

 あれ、なにこれどういうこと?

 思ってもみなかった顔をされていて、私は内心焦り出す。

 もしかして私、地雷踏んだ? え、嘘でしょ?

 私は慌てて茶碗と箸を置いて、湊君の肩におそるおそる触れながら言った。


「だ、大丈夫?」


「……え? あ、あぁ……うん、大丈夫だけどなんで引越しするの?」


 そう言った湊君の声はわずかに震えているような気がして、その目に不安の色が見え私の心は揺れ動いてしまう。

 まさか引っ越す、という話をしただけでここまで動揺するとは思わなかった。

 なんでだろう?


「えーと、ほら、あのストーカー事件からだいぶ時間経つしそれに、いつまでもここにいるわけにはいかな……」


「いつまでもいていいよ」


 私の言葉を遮るようにして、湊君が強い口調で言った。

 湊君はお玉や器を置き、私の方にぐい、と近づいてきて必死な顔になる。


「俺は灯里ちゃんがここにいても大丈夫だし、ずっといても大丈夫なんだよ?」


 えーと、ちょっと待って?

 これってどういうこと?

 だってねえ、私たちって。


「契約、だよね?」


 ぼそり、と私が言うと、湊君はハッとしたような顔になる。

 目があちこちにせわしなく動き、何か言いたそうに唇を開きそして、すぐに閉じてしまう。

 大丈夫かな、これ。私、まずいことを言っただろうか?


「あれから一年たったら終わるわけじゃない? だからその前に出ていかないとな、と思ったんだけど」


 約束は七月だからまだ先だ。とはいえここでお世話になり続ける理由、ないもの。

 しばらく沈黙が続いた後、


「そうだね」


 とだけ、湊君は呟く。

 そして彼は張りつけたような笑みを浮かべ、


「ご飯、食べよう?」


 と言った。

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