どれくらい時間が経っただろうか。
湊君がぽつり、と言った。
「母親がいた」
母親って……母親だよね。生みの親。
湊君が母親を嫌っているのは知っているし、会いたくないのも知っている。
ということはもしかして、母親に見つかるのが嫌で、人前に出ることを嫌っているのかな。
そう思えば納得がいく。
いったい母親と何があったんだろう。
一緒に暮らせなくなるほどの何かがあったんだよね。
「俺、父親に似てるから。それであの人はどんどんおかしくなっていって」
そこで湊君は黙り込む。
これはけっこう重い話である予感がする。
小さく震えているようだしこれ、これかなりやばい感じじゃあないだろうか。
そんな想いをしてまで話を聞きたいとは思わないから、私は彼の頭に手を置いて声をかけた。
「気の利いたことは言えないけど……大丈夫だから。ここには私しかいないし」
すると湊君は私を見上げて目を細め、小さく頷いた後目を閉じ、私の手に頬を擦り付けた。
「会いたくないんだよね、まだ」
と、苦しそうに呟く。
私にはわからないけれど、そんなことを思うほどのことがあったのか。
湊君、中学生から知っているけれどそんな様子、見せたことなかったなぁ。そうなるとそれよりも前の話、なんだろうな。
ということは小学生? いったい何があったんだろう。
でもさすがに突っ込んで聞く勇気はないから、私は黙って彼の頭に触れていた。
「ねえ灯里ちゃん」
「何?」
彼は目を開き、何か言いたそうに口を開くけれど、
「何でもない」
と言い、顔を伏せてしまう。
ちょっと何、なんなのねえ。これは気になる感じなんだけど?
うーん……気にはなるけれど、まあいいか。
言いたくなれば言うよね。聞いてほしそうな感じではあるけれど。どちらかといえば言いたいけど言えない、という感じかな。
「そっか。話せるようになったら話、聞きたいかな。ほら、人に話すことで落ち着くってあるから」
「……あぁ、そうだ、灯里ちゃんお願いがあるんだ」
「え?」
そして湊君は私の手を話、ゆっくりと起き上がる。そして力なく笑い、
「だから俺、大丈夫」
と言った。
だからって何?
「お願いってメールでいっていたやつ? 何なのそれ」
「帰ったら言うよ。今はまだ内緒」
「えー? なんなの、気になるんだけど」
そう私が不満な声をあげると湊君は首を横に振って何も答えなかった。
いったい何なんだろう。気になるなぁ。
まあいいか、後で聞こうと今聞こうと大して変わらないだろう。
「ねえ灯里ちゃん」
「何?」
湊君の腕がこちらに伸びてきたかと思うと、首に絡みつきそして、そのまま抱き寄せられてしまった。
湊君に抱きしめられている。
恋人なんだから普通のことだ。普通のことなのにすごくドキドキするんですけど?
どうしようこれ、なに、どうしたの?
「み、みなと……」
「ありがとう一緒にいてくれて。じゃなくちゃ俺、裸足で逃げ出していたかも」
そう耳元でいい、ぎゅうっと力強く抱きしめてくる。
裸足で逃げ出したかったんですか。マジですかそれ。
「そうなったら大騒ぎだね」
「うん、迷惑かけちゃうから俺、嫌なんだよね。人前に出るの。それに、母親に会う勇気、俺にはまだないから」
湊君の声はなんだか苦しげで、母親と色んなことがあったってことがうかがい知れる。
けっこう重そうだな。湊君が抱えているもの。私、それを受け止められるのかな。
親が生きていたらって思う場面はたくさんあったけれど、生きているのに一緒に暮らせなくなって離れ離れで、色んな問題があるってそれはそれで苦しそうだな。
私は戸惑いつつも湊君の背中に手を回し、
「私はどこにもいかないし、一緒にいるから」
なんて言うのが精いっぱいだった。
「うん」
とだけ答え、湊君は離れていく。そして微笑み、
「お昼食べてないからどこか寄っていってもいいかな。疲れたから夕飯は買って家で食べたいな」
「うん、それでもいいよ」
そして私たちは立ち上がり、部屋の中を片付けてその場を後にした。
イベント自体はまだ終わっていなくて、外は賑わっている。私たちは人々の間をすり抜けて駐車場に向かっていると、目の前に女性が立ちはだかった。
「すみません!」
その女性にはなんだか見覚えがあった。
誰だっけこの人。ちょっと派手な感じの若い女性だ。
彼女は紙袋を持って、ニコニコと笑って立っている。
彼女は私のことなど無視して、湊君にむかって一直線に向かっていくと持っていた紙袋を押し付けた。
「ミナトさんのファンなんです! これ、受け取ってください」
「あぁ、ありがとう、嬉しいけど俺、そういうのは受け取らない……」
そう湊君が言いかけると、彼女は笑顔で紙袋をぐい、と湊君の胸に押し付けるながら身体も押し付けていく。
な、何なのこの人、怖いんだけど?
唖然としていると、彼女は言った。
「受け取ってください! それじゃあ」
それじゃあ、という言葉を妙に低い声で言い、彼女はばっと離れて去っていく。
あっけにとられてその背中を見送っていると、湊君が呟くのが聞こえた。
「あぁ……彼女だったのか」
いったい何のことかと思い、私は湊君の方を見る。
彼は、紙袋から出したであろう封筒を手に持っていた。その封筒から出てきたのは何枚もの写真だった。
その写真は湊君を隠し撮りしたもののようで、マンションから出てくるようすが写っていた。湊君がその写真をめくっていくと、私が写る写真が出てくる。
正確には私と思われる写真だ。だってその写真は顔のところがずたずたに切られていて、かろうじて服装で私だとわかるくらいだ。
な、な、な、何これ。
これってストーカーの手口じゃないですか。背中にすっと冷たいものが流れていくのがわかる。
「彼女がストーカーみたいだね。誰だろう?」
怯える私とは対照的に湊君はわりと冷静だった。
ちょっと待て。覚えてないんですか彼女の事を。私は内心驚きつつ、遠慮がちに言った。
「あの……彼女前に行った保護猫カフェの店員さんだと思うんだけど……」
たぶんそうだと思う。確か湊君と一緒に行った時、すごい顔をしていた女性と同じだと思うのよ。
湊君はしばらく考え込んだ後、あぁ、と呟いた。
「そんな人いたかも。そういえば二回くらい寝たような。あれ、もう少しあったかな」
なんて言って首を傾げる。やっぱり寝たんですね、知ってた。この人の元セフレいったい何人いるんだろう……本人、覚えていないんだからどうしようもないか。
湊君は写真を封筒にしまいながら、私の方を向き、申し訳なさそうな顔になる。
「ごめんね、怖いものみせちゃって。これだと灯里ちゃん、狙われるかもしれないね」
それはそうね。
「猫カフェの人なら名前もわかるし、弁護士を通して警告するよ。ごめんね、巻き込んで」
「いや、まあほら、お互い様じゃないかな。だって私も湊君を巻き込んだし」
にしてもストーカーってよくいるものなのかな。
湊君の場合はなんていうか自業自得感があるけれど。だいぶ遊んでいたんだろうなぁ……そうなるとひとりくらい危なげな人がいてもおかしくないもんねぇ。
「とりあえずごはん食べて帰ろう。お腹すいたし」
言いながら湊君は封筒に写真をしまい、それを紙袋につっこんだ。
「うん、そうね」
私たちは車に乗り、その場を離れた。