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第85話 逃亡

 走って逃げた先は、マンションの中だった。

 何だか後ろで叫びが聞こえて、カツカツという音が続いたけれど、あの人、そういえばヒール履いてたな。そのせいか全然追いついてこない。

 なんでヒールなんて履いてきたんだろう。あれじゃあ走りにくいだろうに。

 暗証番号を入力して中に入り、エレベーターに乗り込む。そして湊君は閉めるボタンと階数のボタンを押して、大きく息を吐いた。

 幸い中には入ってこれないみたいで追いかけてくる様子はない。そして遠くにパトカーの音が聞こえた。

 これで逃げてくれたらいいんだけど。

 いくら私でも、ナイフを向けられたのは初めてだ。

 ストーカーってあんな風になるんだ……ドラマやマンガでしか見たことない展開に、私の足はガクガクと震えて、心臓はバクバクと大きな音を立てている。

 エレベーターの扉が開き、湊君は私を引っ張って廊下を行き、部屋のドアの鍵を開けて中に滑り込みそして、勢いよくドアを閉めた。

 ゼーハー、という、ふたりの吐息が静かな部屋に大きく響く。

 私はへなへなとその場に玄関に座り込み、靴を脱いで声を上げた。


「怖かったぁー」


 生きてる人間って怖い。ナイフ向けられるなんて思ってもみなかった……まだ心臓がバクバクだし身体も震えている。

 湊君は靴を脱がず、玄関で手をつき、荒い息を繰り返していた。

 そりゃ怖いよね。私だって怖かったもの。

 サイレンが聞こえてくるけど、大丈夫かな。警察から連絡来るかな……


「湊君、ありがとう。もう、どうなるかと思った」


 言いながら彼の背中に触れる。

 そこで私は初めて気は付く。湊君の息遣いが尋常じゃない位荒いことに。

 これ、やばいやつじゃないのかな。どうしよう。救急車?

 私は彼の背中に触れ、俯く湊君の顔を覗き込む。


「ね、ねえ大丈夫?」


 震える声で尋ねると、彼は顔を上げ私の腕をつかみ、苦しげに言った。


「しばらく、すれば……落ち着く、から……」


 そして身体を起こすと床に座り込み、掴んだままの私の腕を思い切りひっぱりそして、ぎゅうっと抱きしめてきた。

 湊君はずっと震えている。いっぽうの私はだいぶ落ち着いてきた。私も怖かったけどこれ、ちょっと異常じゃないかな。

 さっき私を守ってくれた湊君と同じ人物とは思えない位、彼は震えている。

 しばらくすれば落ち着く、と言っていたからこのまま待っていればいいの、かな?

 私は彼の背中におそるおそる手を回し、ぎゅっと抱きしめて言った。


「だ、大丈夫、だから。私も湊君も無事でよかった」


 そう語りかけても彼は何も答えない。

 いったい何に怯えているんだろう。あの女性に? それとも別の人、かな。

 私の中にある可能性が思い浮かぶ。

 お母さん、かな。湊君はお母さんを嫌っている。そして何かあったのは確かだろう。虐待とかされたのかな。

 嫌な想像がどんどん浮かぶけど、私の想像には限界がある。

 でも湊君、普通に半袖着るし、何か怪我のあととか見た記憶はない。

 どれくらい抱きしめられていただろう。

 湊君が大きく息を吸い、吐くのが聞こえた後、


「大丈夫、だから」


 と、掠れた声で言った。

 その割にはまだ震えていらっしゃるようですけど?


「あんまりそうは思えないけど」


「ううん、あぁ、うん。そうだよね。うん……ごめん、母親と重なってそれで」


 と言い、彼はまた黙り込んでしまう。

 やっぱりお母さんがトラウマなんだな。だから会いたくないのか。


「まさかあんなことしてくるとは思わなかったな」


 それは確かにそうだ。こんなの創作の中だけだと思っていた。


「弁護士の警告で逆上したの、かな」


「たぶんそうだろうね。俺に向かないで灯里ちゃんにその矛先が向くのが不思議なんだけど」


 それは確かにそうだけど、不倫とかの話だと女性は伴侶よりも相手の女性の方に矛先が向くっていうしな……

 でもなんでだろう……そこはわからないな。

 湊君は私の顔を見つめる。その目には涙が浮いている様で、私はドキリ、としてしまう。湊君のこんな顔を見たのは初めてだ。


「ごめんね、巻き込んで」


「え、あ……えーと、それは私もだしほら、大丈夫だから」


 しどろもどろになりながら、私はなんとか笑顔を作って言った。


「怖かったけど、怪我はしなかったしそれに、警察も来たから。ほら、落ち着いたら警察にさっきのこと、話そう? ちゃんと決着付けたほうがいいよ」


「うん、そうだね」


 そう言って、湊君は目を閉じて大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。

 まさか半年も経たないうちに二度もストーカー被害に合うとは思わなかったなぁ。

 やっぱり私、メンヘラホイホイなんだろうか……まさか女性までそういう人が現れるとは思わなかった。


「灯里ちゃん、ありがとう。一緒にいてくれて」


「え? あぁ、ううん、私こそありがとうだよ。今までいろいろ助けてもらっているし」


 そうそう、助けてもらっているのは私の方だもの。

 もしかしたら私だって、とっくに刺されていたかもしれないし。

 湊君が私の顔をじっと見つめる。

 切なげな眼をして私を見ている。

 これは……どうしよう。

 湊君の顔が近い。当たり前よね、抱き合っているんだもの。

 これは、あれかもしれない。絶対どうだよねこれは。私は顔が熱くなるのを感じつつ、それを待つ。

 湊君の顔が近づいてきてそして、唇がそっと、重なった。


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