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第86話 引越し

 そのあと、私たちは警察にいき、マンション前で襲われたことを話して被害届を提出した。

 あの女性は駆けつけた警察が銃刀法違反で捕まえてくれたらしい。

 にしても通報した後って、通報者に何の連絡もないのね。てっきりあるものだと思い込んでいたけど。

 警察の事情聴取の時、案の定引越しをすすめられた。

 ですよねぇ。引越しはまだ少し先だ。

 女性は反省していないらしく、なぜ逮捕されたのかわからないらしい。

 そんな事ってあるんだ……世の中わからないことが多すぎる。

 女性の事は警察に任せて私たちは夜遅くに帰宅して、お風呂に入ってすぐ眠りに着いた。




 それから三週間ほど経った十二月七日土曜日。

 女性がどうなったのかは報せは何もない。スマホで調べてみたら被害者にいちいち報告はいかないものらしい。

 もやもやは残るけれど、私たちは引越しの日を迎えた。

 引越し先は三LDKのマンションだ。私も湊君も荷物が少ないから準備は楽だったけれど、私、ずっとここにいるわけじゃないしな、という思いはきえない。

 引越し先を決める時、私の職場に通うことを考慮したんだけど、なんだか複雑な気持ちにはなった。

 一緒にいる、って約束した手前、契約が終わった時の話はしなかったけど……どうするつもりなのかがイマイチみえない。

 新しいマンションは、キッチンの奥にお風呂がある、変わったつくりになっていた。

 リビングは広くて六畳ほどの畳の部屋がついている。そして、三つの部屋があって、広い部屋は湊君が使い、玄関からすぐの部屋は私が使うことになった。

 六畳少々の部屋はクローゼットもついていてけっこう広く感じる。

 ベッドに座卓。棚には両親の位牌を置いて、手を合わせる。


「私、頑張るね」


 そう声をかけ、部屋の片づけをする。

 例のストーカーとどうなったのかは私、教えられていない。

 私の時みたいに警告を送られて大人しくなっているならいいけれど、逆上する人もいるって聞くから油断はできないよねぇ。

 あの保護猫カフェには近づけないよね。

 あの我妻さんだってちょっと湊君にちょっかい出していたみたいだけど、その後何もないみたいだ。皆そういう感じならいいけれど、今までいったい何人と関わったんだろう……

 セフレが何人いたのかなんて本人は覚えていないみたいだし、それが厄介よねぇ。

 何も起きなければいいけれど。

 私の方は至って平和だった。

 もう帽子を目深にかぶって出かけることもなくなったし、周りを警戒することもなくなっていたんだけど、新しい懸念が生まれるとは思ってもみなかったなぁ。

 まあ、湊君の以前の生活を考えたらありえなくはない話ではあるんだけど。

 そもそも再会した時、お酒かけられていたし。

 元セフレから恨まれていてもおかしくないか……そう思うと厄介よね。今さらだけど。

 そして迎えた月曜日の昼休み。

 今日も私は千代と向かい合ってお昼を食べる。

 引越しで疲れたから今日はお弁当ではなく、社食で唐揚げ定食を食べることにした。


「珍しいね、社食食べるの」


「でしょー。引越ししたから疲れてやる気でなかったんだよね」


 そう答えて私は箸を持つ。


「いただきます」


「いただきますって、引っ越したの? また?」 


 そして千代は目を見開く。そうよね、そりゃ驚くよね。まさか一年の間に二度も引越しをするとは思わなかったわよ。


「そうなんだよー。まあ色々あって。もう引越しはしばらくいいかな」


「色々ってまさか……あの彼と別れたの?」


 声を潜めて言われ、私はぶんぶん、と首を横に振る。

 そうか、そう思っちゃうか。


「違うよー。一緒に引っ越したの」


 ストーカーの話をするつもりはないので、私は笑って誤魔化す。

 千代は納得してなさそうだけれど、それ以上突っ込みをいれてはこなかった。


「ならよかったけど。引越しって大変だよねー」


「うん。荷物すくないけど疲れちゃったもん」


 だから今週は楽しよう、って思った。ご飯も手抜きしていいと思うし、お昼もなるべく買ってきたもので済ませるんだ。


「もともと住んでたマンション、どうしたの?」


「分譲だから、清掃したあと売りに出すか考えるって言ってた」


 どうするにしても私が口に出すことじゃないし。

 私はご飯をすくい、口に運ぶ。

 千代はカレーを食べている。カレーって見てると食べたくなるのよね。夕食カレーにしようかな。


「そうなんだ。ここから近いんだっけ。それなら買い手、すぐつきそうだね」


「うん、そうだと思うけど」


 売るにしても元々家族で住んでいた家だと言っていたし、家族に相談しないとなのかもしれない。


「だから休みの日、全然暇ないって言ってたのね。鍵村さんからセプトリアスのシークレットライブの関係者チケット、周ってきたんだよ」


 千代の言葉に私は心臓がドクン、と大きく音を立てた。

 セプトリアスのシークレットライブは来週の土曜日だ。

 うちの会社すごいなぁ。そんなチケットもまわってくるんだ……

 湊君が少し前に関係者パスが送られてきたと言っていたっけ。

 私も一緒に行くわけだけど、怖いような、楽しみなような。


「そう、なんだ」


「会社に何枚か貰ったんだって。広報で行きたい人募ったら余ったって言って。それで私が行くことになったんだけど、名前とか申請して、当日社員証必ず持って来いって言われたのよね」


 そんなに厳しいんだ。

 私、そこまで聞いてないけど大丈夫かな……身分証、必要なのかな。まあ、普段から持ち歩いているから忘れる心配はないけど。


「友達に譲りたかったけど、会社向けのパスだからそういうわけにもいかなくって。友達には何にも言えなくてちょっと苦しいんだよねー」


 と言い、千代は苦笑する。

 そう言えば千代の友達で熱狂的なセプトリアスファンがいるって言っていたっけ。

 確かにそれじゃあ言えないよなぁ……

 っていうことは当日、千代に会う、ってことだよね?

 それなら言っておかないとだよなぁ。

 そう思い私は声を潜めて言った。


「あのね、千代。私も来週、セプトリアスのシークレットライブに行くんだよね」


「え、嘘、ほんとに?」


 驚いた顔をして、千代はスプーンを置く。

 千代、驚いてばっかりだなー。


「そんな嘘つかないって」


「だよね」


「そうそう。でね、あの、湊君と一緒に行くんだよね」


 すると千代は何度も瞬きを繰り返して、小さく首を傾げる。


「あれってペアじゃないよね?」


「うん、あの、湊君の知り合いから周ってきてそれで……」


 間違ってない。私は間違ったこと言っていない。

 暗示をかけるように私は自分にそう言い聞かせる。知り合いというか兄弟だけど、さすがにそんなの言えない。


「あぁ、そっか。彼ってイラストレーターだもんね。関係者からもらえたりあるかぁ」


 あ、なんだか納得した。私はうんうん、と頷き、


「そうなんだよー。すごいよねー」


 と言って、笑って誤魔化して唐揚げを摘まんだ。

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