湊君は歩きながらスマホを操作している。
「ちょっと、歩きながらは危ないって」
そう声をかけると、ホールを出たところで彼はぴたり、と立ち止まり、スマホを操作するとそれをコートのポケットにしまい、こちらを振り返って微笑んだ。
「綾斗にはメッセージ送ったから、行こうか。夕飯、食べに行こう」
「メッセージって何送ったの?」
さっきのこともありドキドキしながら聞くと、湊君は首を横に振って言った。
「別に、普通のことだよ。お疲れ様って事と、妹と弟に会ったってことを伝えた」
あ、とりあえず伝えたんだ。ふたりがどう思ったとしてもそれに対して湊君が責任負う話ではないもんな……
たぶん。ふたりとも、父親の離婚や湊君の存在そのものは知ってはいたみたいだし。
「まあ、もう会うことはないと思うけど、関わりたいとも思わないし」
「そう、なんだ」
それ以上私は何も言えなかった。
私が口出せるものじゃないしな……
湊君は私の手を掴むと、にこっと笑って言った。
「ありがとう、灯里ちゃんがいなかったら俺きっと、あの子たちに恨み言をぶつけていたと思うから」
「う、恨み言?」
物騒な言葉に思わず私は、湊君の言葉を繰り返す。
「うん。小さい頃は俺、そこまで父親に似ていなかったんだけど、どんどん似ていって、それで……」
と言い、湊君は顔を伏せそして、首を横に振った。
「母親はおかしくなっていってある日後ろから包丁で背中、切られたから」
そして彼は顔を上げて微笑む。
いや、そんな笑って話せること?
それ私が聞いていい話だった?
だって私……
頭の中でいろんな考えが駆け巡る。
知ってしまった湊君の秘密。思った以上に重いんだけど?
「『何で裏切ったんだ』って。そう叫んで。その後のことはあんまり覚えていないけど、母親は自分で警察と救急車呼んだのかな。そのあと母親と会うことはなくてそのまま養護施設にいれられたんだ」
それはさすがに言い渋るよね。当たり前よね。だって重いもの。私の比じゃないくらい。
「だから女性と深い関係なんて作れないと思っていたんだよね。灯里ちゃんとのことだって賭けみたいな感じで、好きになる努力はするけどそこまで深い関係を作れるなんて思っていなかったから。今まで近付いてきた女性は皆セックス目当てだったけど、灯里ちゃん、全然そういうのなくって驚いたよ」
いや今ここでそういう話しますか?
戸惑う私とは対照的に、湊君は堰を切ったように喋り出す。
「灯里ちゃんも俺もストーカーにあって、あんな怖い思いをずっとしてきたんだってこと、俺も理解できて。プレゼントもらったり、お出かけしたり。そんな普通のデートなんてしたことなかったから新鮮だったな」
たしかに最初、やたらとホテルに行きたがりましたっけ。そこから考えるとずいぶんと変わったなぁ……
「五か月……経ったんだよね、私たち」
そう呟くと、湊君は頷き言った。
「そうだね、五か月も続くなんて思わなかったよ。灯里ちゃんがいなかったら俺、あんな綾斗を見ることはなかっただろうし、妹たちと会うこともなかっただろうな」
あんな綾斗、って湊君は言った。それってどういう意味だろう?
「綾斗が精いっぱい自分の世界で生きているのを見て、なんだか不思議な気持ちだったな。普段はやたら構ってくるし、うざいと思っていたけど」
「あぁ、そんな事思っていたんだ」
さっきまでマイクを通してさんざん聞いた声に驚き、私は振り返った。
すると私たちから二メートルほど離れた所にジャージ姿の綾斗が腕を組んで立っていた。
階下からのざわめきが遠くに聞こえてくる。でもここにいるのは彼と私たちだけだった。
「綾斗」
「うざい、とは心外だなぁ。俺はお前のことずっと思ってるし、心配してるのに」
そう言いながら、彼は不服そうな顔をしてこちらに近づいてくる。
心配……はしているんだろうなぁ。それはやたらと構ってくることから察することができる。
「お前にマスコミが近づかないよう気をつけていたし、母さんが必要以上にお前に近づかないようにはしてきてるんだけど?」
そう言って、彼は腰に手を当てる。
あ、本当にそうなんだ。そうだよね。湊君の存在って、彼からしたらけっこうなスキャンダルになりそうだよね。
守っていたんだ。ずっと。
「あぁ、だから俺のこと、喋ったことなかったんだ」
「妹たちのことはバレるだろうしね。今は家を離れているとはいえ実家の場所はばれてるし。でもお前は違うし、人前に出るの嫌いだろ? だから適度に妹たちのことを話してお前のことは触れないようにしてきたんだよ」
それは言われないとわからないだろうなぁ。
「たしかにマスコミに囲まれるのは嫌だな」
それはそうでしょうね。誰だっていやだろう。ましてやこちらは一般人だもの。しかも湊君の過去を考えると、過去の事を根掘り葉掘りされてしまうだろう。それは不幸な想像しかできない。
「だろ? これは母さんとのことやお前をひとりにした、俺の贖罪かな」
と言い、綾斗は目を伏せた。
湊君、児童福祉施設にいたんだもんね。でもお父さんは引き取りを拒否したんだっけ。じゃなくちゃ、叔父さんが引き取るなんてないもんね。
湊君の顔を見るといたってまじめな顔をしていて感情はよくわからない。
大丈夫、かな。
「別に気にしてないよ。俺を引き取れるわけなんてないんだし。父さんには父さんの家庭があるんだから」
どこか吹っ切れたような顔をして湊君は首を横に振って言った。
気にしてない、か。でも早々割り切れるものじゃないよね。母親には傷つけられて、父親には捨てられたんだもの。
「俺は親父のこと嫌いだけどね。全部の原因は自分であるくせに、お前引き取るの拒否したの未だに許せねえし」
と、吐き捨てるように言い、綾斗は頭に手をやった。
たしかにそうなのよね。父親が不倫しなければどの出来事も起きていないんだもの。
罪が深い。
「そんな話初めて聞いた」
「お前が聞く耳持たなかったからだろ」
「そうだね」
と言い、湊君はふっと笑い頷いた。
「話せてよかったかも」
「よかったじゃなくて普通なの」
呆れたように言ったあと、綾斗は笑う。
「俺たちは帰るよ。じゃあ、綾斗」
「あぁ、また連絡するから出ろよな」
「わかったよ」
そして湊君は歩き出す。
綾斗の横を通り過ぎる時、彼はすっと、手を上げた。まるで申し合わせたかのように湊君も手を上げてその手をバーン、と叩いた。
あぁ、このふたりは兄弟なんだなぁ。決して間に入れない絆を感じつつ、綾斗に頭を下げて湊君のあとを追いかけた。