滞在時間は一時間半、といったところだろうか。
その間に綾斗は湊の部屋に侵入し、絵を見たようだった。
ちなみに私はなぜかいれてもらえなかった。なんでだろうな。
「あんな絵描くんだね、お前」
「あんなの描くのは初めてだよ」
なんて言いながら部屋から出てきたけど、いったい何を見たんだろうか。
その間、しかたなく猫と遊んでいた私を見つけた綾斗は、
「長居する気はないから俺帰るね」
と言い出した。
あ、帰るのね。
するとノアが彼の元に近づき、綾斗を見上げる。
「あぁ、猫ちゃんもまたねー」
と言い、彼はしゃがみ込んでノアの頭を撫でた。
するとノアはごろごろと喉を鳴らして気持ちよさそうにしている。
ノアが私たち以外の人間に会うのは初めてだからちょっと心配だったけど、よかった、暴れたり警戒したりしなくて。
ノアから手を離した彼は湊の方を向いて、帽子を被りながら言った。
「また来るよ」
「別にいいよ」
間髪入れずに湊君が言い、私は思わず苦笑する。綾斗は気にする様子もなく立ち上がり、湊に手を振った。
「あはは、そんなこと言わずにまた来るって」
「別にいいって。ほら、さっさと帰りなよ」
と言い、湊は綾斗の背中を押していく。
「もう素直じゃないなぁ」
綾斗はそう言って笑うけど、湊はめんどくさそうな顔をして彼の背中を押しながら玄関へとつながる廊下へと向かっていった。
「わかったよ、帰るって」
そんな笑いを含む綾斗の声が聞こえてくる。
私はノアを抱っこして、彼女に声をかける。
「あれって仲いいのかな?」
「にゃおん」
と、ノアは鳴き、大きな欠伸をした。
私には兄弟がいないからちょっと羨ましい。
しばらくして湊君が帰ってきて、大きなため息をつきカップなどを片付けだす。
私もノアを床におろし、片づけを手伝う。
するとノアはキャットタワーに上り、一番上にたどり着くとそこに寝転がって私たちの様子を尻尾を揺らして見下ろしていた。
「ねえ、なんでお兄さんだとあんな素直じゃないの?」
「灯里までそんな……えーと……ペースを乱されるっていうか……」
と言い、彼は嫌そうな顔になる。
あぁそうか。私といてもそうだけど、いつも自分のペースに他人をのせる側だもんね。のせられる側じゃない。だから嫌なのね。それは納得。笑っちゃうけど。
「そうなんだ。そういう事なのね。でも前はもっと尖ってる感じだったけど、だいぶ丸くなった感じだよね」
そう私が言うと、彼は恥ずかしそうに視線をそらし、手に持ったカップをキッチンに持っていった。
「そうかな……まあ、もう子供じゃないし。苦手なのは変わらないけど、少しは相手にした方がいいのかなって」
「向こうはすごい気にかけてるし、心配してるっぽいよね」
以前そんな事、言っていたし。
その事も何か不満なのか、嫌そうな顔をして湊は頷く。
「自分だけが父親に引き取られて、引け目に感じているんじゃないかなって思うんだよね。そう思われるのも嫌だし」
「なるほどねえ。ところで彼には何を見せたの?」
彼は湊の部屋に入っていった。だけど私、彼の部屋に入ったことがないのよね。作業に使ういろんなものがあるから入らない方がいいと思って入ったことがない。
「絵を見せただけだよ」
さらっと答え、湊君は洗い終わった食器を拭く。
「あんな絵、描くんだって言っていたけど、いったい何見せたのかなって思って」
言いながら私はカウンターに腕を置いて身を乗り出した。
「色々、仕事関係の絵もあるからね」
「綾斗さんの言葉に、『あんなの描くの初めて』って答えてなかった?」
たしかそう言っていたと思うのよね。だから気になったんだもの。
すると湊は手を止めて、目を大きく見開き瞬きを繰り返した。
あ、これは何か隠そうとしている。そしてこれは何も言う気、ないってことよね。言う気があればそのまま答えているもの。
「あぁ、うん、そうだね、そう言ったかも」
と言い、彼は曖昧に笑う。
うーん、やっぱり答える気ないんだなぁ。
湊は拭いた食器を食器棚にしまって、自分のカップをカプセルのコーヒーマシンにセットしている。
まあ、いいか。
私は昨日のドラマ見よう。会社のSNSに感想、あげたいし。あと、会社に許可とったからノアの写真も撮ろう。
「ねえねえ、ノアの写真、会社のSNSにあげてもいい?」
「え? あぁいいけど。周りがわからないようにするならだけど」
「そこはもちろん気を付けるし、ノアの所だけ切り取るから」
「わかった、ならいいよ」
そして湊はコーヒーマシンのボタンを押した。
私は、キャットタワーにいるノアの写真を撮る。ノアはこちらを見降ろして、大きな欠伸をして尻尾を振っていた。
うーん、可愛いなぁ。
色々と写真を撮っていると、後ろに気配を感じそして、ぎゅうっと背中から抱きしめられてしまう。
「ちょっ」
びっくりして私は思わず変な声を上げてしまう。
湊は私の腰に手を回し、肩に顎を置いて息をついた。
「どうしたのよ」
「うーん、ちょっとこうしていたくて」
と、くぐもった声で言い、腕に力を込めてくる。
何かあったのかな。いや、あったか。お兄さんが家に来た。
湊の中でのお兄さんに対する感情っていろいろあるんだろうな。ペースを乱されるっていうのは一面でしかないようにも思うし。
父親に選ばれた綾斗と、拒否された湊。親の行為が子供たちの間にこんな影を落とすことになるなんて辛いな。
「一緒にいてくれてありがとう」
「何? お礼を言うのは私の方だよ。いつも帰ってきたら人がいる幸せを感じさせてくれるんだもん」
それはずっと私が欲しかったものだ。
誰かにお帰りって言ってもらえる環境は、私にとって憧れだった。
お母さんが死んだ後、お父さんがいたけど、お父さんが私より先に帰ってくるなんて殆どなかったし。休みの日じゃないと家にいなかったもんね。
ご飯の支度や家事は分担してやっていたし。
今は帰ってくるとご飯があって、ただいまを言う相手がいて。お帰りって言ってもらえて。そんな当たり前なことが幸せなんだよね。
「あぁ、うん。そうだよね。俺にはその感覚わかんなかったけど。なんで灯里ちゃんが家族をそんなに求めてるのか理解できなかったから」
湊は家族と色々あったけれど、引き取られた後それだけ幸せに暮らしてきたからじゃないかな。
「あはは、まあそうだよね」
「恋人が欲しいっていうのもわかんなかったし、特定の誰かと一緒にいたいっていうのもわかんなかった」
「だからこうして付き合うことになったんだもんね」
そう思うと人生って何があるのかわからないなぁ。
あの時、千代と一緒に飲みに行っていなかったら運命変わっていたんだろうな……よかった、あの時飲みに行っておいて。しかも普段は行かないお店に。じゃなかったら私、湊と再会していなかっただろう。
「おかげで私、過去の因果断ち切れたし、今楽しくて幸せだよ」
言いながら私は私を抱きしめる湊の手に触れる。
「俺は……うん、灯里ちゃんのお陰で、少しだけ綾斗を受け入れられるようになれたかな。ライブ見てちょっと見直したし」
「ライブは楽しかったしすごかったね」
ライブ一緒に行けて良かった。私が行きたい、と言い出さなかったら湊と綾斗もずっとどこかすれ違ったままだったのかな。
人生の分岐ってどこに隠れているかわからないなぁ。
「ライブは確かにそうだね。二度目はいいかな」
その言葉を聞いて、ちょっと笑ってしまう。実の兄弟なのになんか不思議な距離感だな。色々あったから仕方ないだろうけど。
「ところで、コーヒー冷めない?」
湊がコーヒーを淹れてから私に抱き着いてくるまでそんなに時間なかったはずだ。ということは飲んでいないだろう。そしてだいぶ時間が経っているからきっと冷めてるよね。
「レンジで温めるからいいよ。それより今はこうしていたいから」
そう言って、彼は私の首にちゅうっと音をたてて口づけた。