「あらこんにちは」
「あ、こんにちは」
その人は一か月くらい前に会ったご婦人だった。
その後、週に一度くらいここで顔を合わせていて、少し会話をしていた。でも名前は知らない。私も彼女も名乗っていない。
ちなみに最近は桜の写真を毎日撮るようになったから毎日会っている。
どうも決まった時間……十一時前後にこの辺りを散歩しているらしい。今日は駅前のチェーンのカフェのカップを持っている。
女性の今日のファッションは、ワンピースに桜色のジャケットだ。顔を合わせていて気が付いたけど、毎回被っている帽子が違うのよね。この間会ったときは黒い帽子だったし、その前は桜色だったな。今日は白い帽子を被っている。彼女はこちらに近づくと、桜の木を見上げて言った。
「だいぶ満開に近づいてきましたねぇ」
「そうですね。あと少しで満開ですね」
今は八分咲きというところだろう。満開になったらもっと公園に人、増えそうだな。
「少し行くとお堀があるでしょう? 夜は桜のライトアップをしていて、この時期は見に行くんですけどそれも綺麗ですよ」
「写真見たことあります。お堀の水に桜が映って綺麗でした」
ここから歩いて十五分くらいだろうか。
元お城があった城址公園があって、その周りにお堀がある。そしてお堀にはたくさんの桜が植えられていてこの時期はライトアップが行われるから、たくさんの人が訪れて出店もでるらしい。
……そう、たくさんの人が見に行く場所なので、私は近づくのを躊躇する。
心は惹かれるんだけどね。
「そうなのよね。ちょっと人が多いのが難点だけど」
そう言って、女性は笑う。
「そうですよねぇ。そう思うとちょっと気がひけるので、ここが私にはちょうどいいです」
言いながら私は苦笑した。
「……あの、森崎さん」
後ろからちょんちょん、とつつかれて、私は狩野さんの方を振り返った。
彼女はいぶかしげな顔をして、女性をちら見して言った。
「あちらの女性は」
「あぁ、ご近所に住んでいる方なの」
「そういうことですか」
すると狩野さんに気が付いた女性が、小さく首を傾げて言った。
「こんにちは。柚木と申します」
「狩野です」
私の後ろで狩野さんが弾んだ声で答える。一方私はひとり、動揺していた。
柚木、と名乗ったよね、今。
良かった私、マスクをしていて。じゃなかったら私きっと、変な声を出していたかもしれない。
だって、柚木って湊と同じ名字だから。
よくある名字じゃないしな……そうなると本当に彼女は……
そう思って私は女性……柚木さんを見つめた。
心臓が太鼓かってくらい大きな音を立てて鼓動を繰り返しているのがわかる。
柚木さんもマスクをしているから、顔がよくわかんないんだよね。
綾斗と似てるらしいけど……うーん……言われてみれば目は似ているかもしれないけど。
「……森崎さん?」
後ろから狩野さんにつつかれて、私はハッとして慌てて名前を伝えた。
「も、森崎です」
「何度もお会いしているのに、名乗ったのは初めてですね」
確かにそうだ。だって私、彼女の名前を知るのを避けてきたから。もしかしてと思っていたけど、本当に湊の……
そう思うと私の心の中は複雑になる。
でも彼女は不倫の被害者、だしな……だからといって湊にやったこと、正当化されないけど。
「ここにはよくいらっしゃるんですか?」
狩野さんが言うと、柚木さんは頷く。
「えぇ。毎日散歩に来ます。以前は引きこもってばかりでしたけど、外に出ないと気が滅入ってしまうので」
「あー、わかりますわかります」
なんて言って、狩野さんは何度も頷き腕を組む。
「確かに引きこもりよくないですよねぇ。ってことはおひとりなんですか?」
その問いにドキっとして、私は狩野さんの顔を見つめる。何聞いてるのこの子、と思うけど、でも止めるわけにもいかないし。
あぁ、もう心臓が痛い。
おそるおそる反応を見ていると、柚木さんは頷いた。
「えぇ。そうなんです」
「失礼ですがご家族は?」
いや本当に失礼だと思うけど、私も気になるしそれに止めたら変かなとぐるぐると考えてしまい、私はあわあわしながら狩野さんと柚木さんを交互に見つめた。
「昔はいたんですけど……今は一緒に暮らしていなくて」
と、寂しげな声で答える。
「何やら事情がおありなんですねぇ」
「か、狩野さん。あんまり突っ込んで聞くのは失礼ですよ。す、すみません、柚木さん」
そして私は柚木さんに頭を下げる。
「いいえ、いいんですよ。なかなか人と話す機会もありませんし。子供たちの様子はSNSを通じて見ることができますから」
「SNS、してるんですか? すごいですね、うちの親なんて全然そういうのしないですよー」
そうなんだ。
私のお父さんはどうだったかな……さすがにわかんないな。
「まあ、そうですよね。私、たぶんおふたりの親位の年令になると思いますけどそこまでネットが身近ではなかったですからね。昔はとてもアングラでしたし」
「そんな時代、あったんですねぇ」
「えぇ。私は昔から触れてきましたし、元夫もそうでしたね」
「元ってことは離婚されてる?」
「ちょ……狩野さん?」
若い子すごいな。ずけずけと聞いていく。いや、私も何も知らなければ聞いていたかな、同じことを。
「大丈夫ですよ。もう昔の事ですから……不倫されて、いろいろあって別れました」
その言葉を聞いて、私の心臓が大きく音をたてた。
やっぱり、そうだよね。湊のお母さん、だよね?
「うわぁ、不倫なんてサイテーですね」
軽蔑をはらんだ声で狩野さんが言って私は思わず、
「そうね」
と頷く。
「不倫なんて心壊されるって言いますし。別れて正解ですよ」
「そうですね。子供たちにも迷惑をかけたと思います」
そして柚木さんは下を俯く。
迷惑は……うん、そうね。綾斗のほうは母親と何もないみたいだけど、湊の方は女性観、かなり歪んじゃったよね……
ワンナイトはふつうだし、それをなんとも思ってなかったし。名前は憶えないし。
よく私、付き合うって言われてオッケーしたな。いや、契約とはいえ恋人としても厳しいでしょう。
「私たちとお子さん、同じくらいってことですよね。昔は気にしたかもしれませんけど、もう大人なんでしょうし、そんなこときっと思ってないですよー」
とても純粋な声で狩野さんが言うと、柚木さんは顔を上げ、口元に手を当てて笑ったようだった。
「そう、ですかね」
「そうですって。いつかこんなことあったねーって言える日は来ますよ」
今の若い子すごい。いや、私も若いけど、ここまでずけずけといえない。
柚木さんは頷き、
「若い人と話すと、新鮮で楽しいですね」
と、笑いを含んだ声で言った。
「え、えーとすみません、私たちそろそろ帰りますね!」
これ以上ここにいるのは気持ちが落ち着かない。
そう思い、私は狩野さんの腕をつかみ、柚木さんに頭を下げた。
「あら、そうなの。ねえ、せっかくですから一緒に写真をとってくださらない? 桜を背景に」
そして柚木さんはマスクを外す。
その顔は思った通り、綾斗によく似ていた。
「いいですねー。私、自撮り棒ありますよ!」
「なんであるの?」
狩野さんの言葉に思わず突っ込むと、彼女は着ているジャケットのポケットから本当に自撮り棒を取り出した。
本当に持ってるし。
彼女の自撮り棒を使って桜を背景に写真をそれぞれのスマホで撮り、私たちは別れた。