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第125話 あじさい祭り 前

 五月の終わり、私は自室の引き出しにしまってあった一枚の紙を取り出した。

 それは、去年の七月、湊と交わした契約書だった。

 恋人契約は一年間。

 終わりは七月末。

 その日までは恋人としてお互い振舞う事。

 それが契約内容だ。

 大したことは決めなかった。

 もし、本当に恋人になりたいと思ったら?

 もし、それ以上の関係を望んだら?

 それは何も話し合わなかったんだよね。

 でも今、私たちは恋人になってる。しかも一緒に暮らしているし、ある意味それ以上、だよね。

 もしかしたらこれ、罠なんじゃないかって思うくらい、私はいつの間にか彼の手の中にいた。


「それは考え過ぎだよねぇ」


 ただ色んな偶然が重なって、いま私はここにいる。

 この契約、どうなるんだろうな。

 あと二ヶ月したらこの契約は終わる。

 契約の恋人ごっこは終わって、本物の恋人になるのかな。そもそも本物とごっこの境目ってどこあるんだろう?

 そう思って私は腕を組む。


「うーん」


 考えてもわからないよね。

 契約の終わりは近いけど、私たちはその事実から目を背けるように触れずにきている。

 その日が来るのをただ待ち続けている。

 私から切りだすのは怖いのよね。だから私は黙ってる。もしかしたら彼も同じ思いなのかもしれない。

 私は契約書をきれいに畳み、引き出しにしまう。

 次に見るときは契約が終わる日だろう。

 あと二ヶ月。

 契約の終わりの先はどうなるのかな。



 六月の終わりの土曜日。

 私たちはあじさい祭りをやっているお寺に来ていた。

 寺なので駐車場はそこそこ広いんだけど、すこし離れた空き地が臨時駐車場になっていて、たくさんの車が停められていた。

 お寺は山の中にあるんだけど、斜面いっぱいにいろんな色のあじさいが植えられていて、とても華やかだった。


「すごーい」


 思わず私は感嘆の声を漏らす。

 青に紫、白にピンク。あじさいって土によって色が違うんだっけ。そのせいだろう。区画によって色分けがされていてそれがグラデーションのようになっている。


「これだけ咲いていると圧巻だね」


 言いながら湊はデジカメを山に向けて写真を撮っていく。

 きっと資料にするんだろうな。

 私も写真撮ろう。こんなに綺麗だし、記録しておきたい。

 私もスマホを構えていくつも写真を撮る。

 何枚か写真を撮った後、私は彼が満足するのを待ってから腕をつかみ、


「行こう」


 と声をかけて歩き出す。

 すると、私たちの横を子供たちが走っていく。四歳とか五歳くらいかな。男の子たちが花なんてそっちのけで緩やかな坂を上っていく。

 元気だなぁ。


「こら、走っちゃだめでしょ!」


 そんな母親らしき女性の声が後ろから響き、風が通り過ぎていく。

 ……お母さんって、大変だな。

 緩やかとはいえ坂だしあんなに走るのって。

 しばらくしてお母さんが子供たちを捕獲しているのが目に映る。


「子供の時ってあんな風に意味もなくなんか走ってたかも」


 なんて、湊が呟く。


「そう、だったの?」


「うん。ほら、綾斗とは年が近いからかもだけど。こういう場所にくると自然とおいかけっこが始まったり、なんか走ってたなって」


「意味もなく走るって、想像できないなぁ」


 私が笑いながら言うと、湊はははっと笑う。


「そうだね……なんか、あんなふうに追いかけられて捕まえられたなって、ふと思い出して」


 そう、寂しさと懐かしさが入り混じったような声で呟く。

 お母さんのこと、だよねこれって。

 聞いていてちょっと心が痛い。

 子供たちとお母さんの様子をどこか悲しげな顔で見つめる湊の顔をじっと見つめ、私はふと首を傾げて尋ねた。


「親になりたいって思う?」


 言いながら私は何を言い出しているのかと思う。

 案の定湊は、目を見開いて私を見つめる。


「え?」


 驚いているんだろうな、なんか声、裏返ってるし。

 私は慌てて、


「え、いや、あの……えーとね、あの、そういう意味じゃなくって。あの、子供欲しいって思うのかなって思って。私、家族欲しいって思ってたけど子供欲しいかっていわれるとよくわかんないっていうかなんというか」


 混乱しすぎて私、何言ってるのかわからなくなってくる。

 言葉を切って自分が何を言ったのかを思い出して内心頭を抱えていると、湊は真剣な顔で考え込む仕草を見せた。


「うーん……どうだろう。まだわかんないな」


「そうよね」


 私だってよくわかんないもの。

 家族は欲しいけど、それってつまり子供のこともついて回るのよね。

 そこまで考えてなかったことに気が付いた。

 恋人契約の内はそんなの気にしなくていいんだろうけど、恋人になってそのあと別れなければそのまま結婚だってあり得るわけだよね。そもそも私たち、もう一緒に暮らしているわけだし。

 そうなると結婚ってそんな遠い未来の話じゃないのよね。

 湊は私に顔を近づけてきたかと思うと、優しい笑みを浮かべて言った。


「親になるなんて想像できないけど、まだ俺はふたりだけの時間を過ごしたいな」


 そしてすぐに顔を離し、


「あっちで写真撮ろうよ」


 と言い、ちょっと通路が広くなっている所を指差した。

 今私はそれどころではないんだけど?

 今のは恥ずかしすぎるんだけど。

 そんな私のことなどお構いなしに彼は私を引っ張るように歩き、通路の少し広くなっている所で立ち止まった。

 そこでは他にも立ち止まって写真を撮っている人たちがいる。

 皆考えることは一緒なんだな。そもそもここが広くなっているのはフォトスポットだからなのかもしれない。

 上へ行くほど青から紫、赤紫からピンク、白に変化していくあじさいはとても綺麗だった。

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