(さて、情報収集はこのくらいでいいでしょう。上位クラスの生徒や音羽派閥が顔を見せなかったのが不穏ですが、気になる生徒を何名か調査できただけでも幸運です)
彩香は『新学期前試験』の試験会場を後にすると、静かに足を踏み出した。
周囲にはまだ試験を受けている生徒たちの姿がちらほら見えたが、彼女の目はすでに次の目的地へと向いている。
(三月くん、大丈夫でしょうか……)
彩香が向かう先は体育館。目的は当然、三月が参加させられている『退学試験』の様子の確認だ。
あれだけ盤上の勝負に強い三月のことだから、試験内容に圧倒されておめおめと帰ってくるなんてことはまずありえない。
だが、彩香は別な面で心配していた。
(……やりすぎてないといいですが)
※
三月と試験官である神崎の対局は、思わぬ方向へと進んでいた。
──大劣勢。いや、敗勢。
高段者に匹敵するほどの硬派で堅実な指し回しをする神崎に、三月は手も足も出ず追いやられていた。
「うわー、予想通り……」
「おいおい、勝負にならねぇなこりゃ」
それを見ていた観衆の感想は皆同じ。予想通りの展開……いや、予想以上に酷い展開である。
これまで天将学園に在籍する多くの生徒が無謀にも思える蛮勇を見せてきた。
しかし、その蛮勇が功を奏したことはない。
特に天将学園の本質を理解していない新入生は自分の実力がこの学園内でも通用するものだと自信過剰になることが多く、その度に多くの失敗と挫折を味わって学園の理不尽さを思い知ってきた。
きっと、三月もそんな者の一人なのだろう。
この天将学園の厳しさを理解していないバカな自称優等生。いくら異質を醸し出そうと、霧に隠れることもない対局という舞台では自身の棋力が全てである。
三月が試験官である神崎に勝負を仕掛ける。確かにその行為自体は多くの注目を集めた。……だが、集めただけである。
そこで負ければ恥さらし、大敗すれば格好のエサになる。
この『退学試験』で最も憂慮すべきなのは己の棋力の有無などではない。より格下を相手にどれだけ勝利し、天将印を奪い取れるかである。
この試験の本質を理解している者は皆、自らの棋力を公には明かさない。それが仇となって格下狩りの標的にされれば本末転倒だからだ。
逆にエサを探す側は、この試験会場にいるあらゆる生徒達の対局を注視する。どのレベルであれば自分のエサに相応しいのか、どうすれば生き残れるのか。残り時間を頭の片隅に置きながら少しでも勝利を積み重ねようと思案する。
ああ、なんということか。三月の対局は大勢の者達に見られ、実力を知られてしまった。
試験官である神崎との対局は、天将印を賭ける必要のないリスクの無い対局? 試験官が相手だから負けても仕方がない?
そんなことあるはずがない。
この対局は三月にとってリスクだらけの対局である。これだけ大勢の者達の視線にさらされながら手の内を見せ、その結果試験官の神崎にも勝てないとあっては何ひとつとして収穫が無い。
「ほら、詰めろだ」
まるで赤子でも相手にするかのような神崎の対応に、周りからは嘲笑の声が飛んでくる。
三月は精一杯の手で反撃を窺うが、神崎の
あっという間の10分、ちょうど観衆が飽きてくる頃合いで三月の頭が深々と下げられた。
「……負けました」
イレギュラーが勝利する。そんな展開が起こるはずもなく、三月は神崎に大敗するという結果に終わった。
「これで満足か?」
「はい」
「そうか、まぁ頑張れ」
神崎は既に三月への興味を失っているようで、対局が終わると何事もなかったかのようにステージの壇上へと戻っていった。
一瞬流れる静寂の空気。
──次の瞬間、三月の元へ大勢の生徒が押し寄せた。
「なあお前、次俺とやろうぜ!」
「オレが先だ!」
「アタシよ!」
敗北した相手ほど恰好のエサはない。
神崎との対局で三月の棋力が周知され、周りの生徒達の脳内には既に三月に勝つルートが出来上がっている。
公の場での敗北、これ以上ない標的の誕生。周りの生徒から窺える表面的な笑顔の中に潜む本心は、決して友好的な感情などではない。
「……ッ」
三月は思わず足を後退させ、額に冷や汗を浮かべる。
これだけの人数からの挑戦状。誰がどのくらい強いのか、どんな戦法を使うのか、全くもって情報がない。
しかし、三月も一々対戦相手を選んでいる暇など無い。試験の時間は一刻を争っている。
ああ、なんということか。これほど愚かな結果は見たことがない。
一人目、三月は流れるがままに対局を迫られ、合意の元たった1つしか持っていない天将印を賭けて勝負が始まった。
状況把握も出来て無さそうな顔色で駒を進める三月に、一人目の対戦相手は果敢に攻め入る。
しかし、最善手を放棄した無理攻めが祟ったのか、偶然にも一人目の対戦相手は駒の両取りを見逃してしまい、三月が勝利した。
二人目、自身に満ちた男は三月が先程勝利して得た天将印2つすべてを賭けて戦うよう挑発し、三月はそれに乗ってしまう形で早々に2戦目が始まる。
しかし、三月は偶然にもこれに勝利──。
違和感を覚える後続の生徒達。だが、三月の指し手は神崎との対局から劇的に変化しているわけではない。
ミスは多く、攻防もそれほどではない。たまたま相手が晒した隙を突いて勝っているに過ぎない。
三人目、天将印を大量に所持している女子生徒が立ちはだかり、またもや三月に全てを賭けるよう挑発する。
その女子生徒は新入生の中でも好成績で入学試験を突破し、この退学試験でも悠々の合格を手にしていた者だった。
その手には7個もの天将印、その半分である4個を場に出し、三月の持つ4個すべての天将印を賭けて対局が行われた。
相手は試験官を相手に戦いを挑むお調子者、挙句にはボコボコに負けて棋力すら公に晒すほどの頭の足りない男。──女子生徒は三月をそう判断する。
しかし、そんな三人目の女子生徒相手にも、三月は何故か勝利した。
そのまま続いた四人目にも勝利する。
そして五人目も──。
「う、うそだ……っ!?」
「お、おい……お前なんで負け──」
──おかしい。ああ、おかしい。そう気づいた頃にはもう遅かった。
トバリの三月、その名を轟かせた天才真剣師が何もできずに敗北など──。
──そんな状況、あるわけがない。
「──あぁ、悪い。また勝ってしまった」
三月は今にも詰んでしまいそうなほどにボロボロとなった自分の玉形を抱えながら、ギリギリの状況で五人目の生徒にも勝利する。
ありえない、ありえない。いくら接戦とはいえ、──勝ち過ぎだ。
「そんな……さっきのに続いて、また勝っ──、う、うそだ、ありえない! 俺も負けるなんて……こ、こんなのマグレ……ッ!」
「あぁ、マグレだよマグレ。いやはや本当に悪いな、実に惜しかった。俺は絶対に負けると思っていたからな。偶然、そう、本当に偶然勝てただけだ」
三月は恐ろしい形相で顔を上げると、自分をカモろうと勝負を挑んできた生徒に迫る。
「──だから、もう一度対局しよう」
「ひぃ!?」
机から零れ落ちる天将印。その数──なんと32個。
窮地に陥っていたはずの三月は、既に退学試験のクリア条件を大幅に……あまりにも大幅に越え過ぎている。
それでもまだ物足りないのか、三月はもはや取り繕う気もない弱者アピールをして釣れるだけ釣ろうと糸を垂らす。
「どうした? 俺は今偶然勝っただけだぞ? 何を警戒している? あぁ、最後の詰みを読めなくて頓死してしまったことを後悔しているのか? 安心してくれ、俺はその詰みを偶然、たまたま見つけただけだ。だって考えても見ろよ、試験官にも負けるような男があんな難解な【27手詰め】を読めるはずないだろう? だから俺が勝てたのは偶然だ。もしその偶然が、奇跡が、俺の味方に付いていなかったら、お前は間違いなく勝っていた、これは不運な事故だったんだ。──だからもう一度勝負しよう?」
三月のセリフに、その場にいた全員が震えあがる。
男は椅子から転げ落ち、逃げるように後ずさる。
壇上、腕を組んでその様子を見ていた神崎が滝のような冷や汗を流して絶句する。
「どうした? もう俺と戦ってくれるヤツはいないのか? ……まぁ、こんなものか」
三月はポケットから取り出した袋に大量の天将印を投げ込み、席を立つ。
それを、先程まで狙っていた生徒達が恐怖に震えながら身を引く。
──三月は、この退学試験のルールを聞いた瞬間から試験の本質を理解していた。
この試験の本質、最大の問題は、そもそも相手との合意が無ければ対局が始められないという点にある。
将棋がどれだけ強くとも、対戦が成立しなければ天将印が得られない。つまり、この試験に合格できないのだ。
そう、三月は試験官、神崎を相手にただ負けたのではない。
──大勢の前で、手の内をバラすように負けた。
一人目の相手も、二人目の相手も、その次の相手も、偶然を装って勝利した。ギリギリ限界まで強さを誤認させ、あたかも接戦で勝利したかのように演出した。
三月は、自分を限界まで弱く見せたのである。
その手法は、真剣師である三月にとってあまりにも慣れ親しんだもの。
古来より徒然、金を賭けた真剣師の勝負で最も危惧すべき事態は、負けるリスクなどではない。
──勝ってしまうリスクだ。
自分の強さが方々に広まってしまえば、それ以降誰も自分とは相手をしてくれなくなる。それは棋士として本分であっても、真剣師としては終わりを意味する。
だから、三月は現世でも自身の素性を隠し、立場を偽装し、自分を知らない相手のいるところへ立ち寄っていた。
勝てるかもしれない。偶然負けただけ。……相手にそう思わせるのは、金を巻き上げる真剣師として基礎も基礎、鉄板の常套手段である。
「こ、この俺を……ダシに使ったのか……!?」
試験官である神崎はようやく三月の意図に気付き、恐怖する。
試験官という目立つ立場の男に勝負を仕掛けたのも、そのリスクを表に出すことで天将印を賭けない対局を行ったのも、その対局の中で自分の手の内を曝け出すような真似をして負けたのも。全部、全部──。
(そう、この試験の肝は、自分の実力を見せびらかしてしまうと誰も勝負に乗ってくれなくなるところ。──さっすが三月くん♪ 思いついても誰もやらないよ、それ♡)
影からこっそり眺めていた九條は惚れるように心の中で呟く。
自分を弱く見せるということは、それだけ負けるリスクが大幅に上がるということ。
それは、自分が圧倒的な強者、格上の立場で無ければ成せない神業。その手法を取るということは、自分がこの場にいる誰よりも強いというのが大前提である。
もしも三月より強い者が一人でもいたなら、この策はあっという間に瓦解していた。三月はその1回のミスで、即退学を決定づけられていたのである。
だが、死ぬことすら恐れない三月にとって、その程度のリスクなど恐怖の先端にも触れはしない。スリルとしてあまりにも温すぎる。
──全員が、唖然としていた。
幕が上がっていることすら気づかれないまま全員を騙し、全てを終えてから気づかせるようにその幕を降ろす。
伝説、トバリの三月の遊戯は──対局開始からたった47分で幕を閉じた。