手に張り付いた血が滑り、時間と共に冷え固まる。手指を動かす度にパリパリと剥がれ落ち、指の腹を擦り合わせると赤黒い血が滓となって垢のように集まり合って廊を濡らす血溜まりの一部へ還る。足を動かせば体液と混ざり合った屍血が糸を引いて靴底に張り付き、鮮血に照る肉片が傷のようにこびり付く。
一歩足を踏み出せば、必ず柔らかい肉片を踏み潰さなければならなかった。肉に残った血が噴き出し、純白のスラックスを朱に染める。狂ったサディストが振るう凶刃から迸る血がグローリアのダブルスーツに飛び散り、赤の斑点を残す。激痛に絶叫する贄の声も、笑い転げて虐待に勤しむ歪な狂笑も、骨肉を断つチェーンソーの駆動音も、全てが煩わしかった。殺人という罪を犯し、悪の蜜を啜った獣性を解放して己を苛む罪悪を一掃したかった。棍棒を握り締める手が震え、血濡れの臓物を抱きながら駆け寄って来る醜悪な笑みを浮かべた女を見据えたグローリアは、鼻孔を刺激する鉄の匂いに思わず顔を顰めてしまう。
「良い内臓でしょう? 出来立てホヤホヤの、産まれたばかりの胎児から取ったモノなの。綺麗だと思わない? 少し触ってみて? ほら……こんなにも柔らかいのよ?」
込み上げる胃液と耐え難い吐き気。酸っぱい液体を必死に飲み込み、女と同じような笑みを顔に張りつけたグローリアは「あぁ、綺麗な臓物だね。傷一つ無い取り出し方に敬意を覚えるよ」と嘘を吐き、未だ脈動する小さな心臓を指先で撫でる。
「そう? あぁ貴男みたいな美男子に褒められるなんて……少し照れるわ。ねぇ私と遊ばない? 丁度良い玩具があるの……継ぎ接ぎショーをしたいのよ、貴男と私で。男に女の手足をくっ付けて、女に陰茎を縫い留める……。面白いと思わない?」
「そうだね」
グローリアの手を握り、チェーンソーを振り回す巨漢を指差した女の顔は悪魔そのものだった。人間の皮を被りながら狂気に身を震わせ、恍惚する罪悪の悪魔……。常人よりも強靭な精神を持ち、未だ正気を失わずにいたグローリアは身の毛もよだつ残虐なショーを視界に映し、息を詰まらせる。
チェーンソーの排気口から排ガスが噴かれる度に絶叫する一組の男女と、それを取り囲む血塗れの狂人達。噴き出す血を我先にと全身に塗りたくり、飛び散った肉を食んでは砕けた骨を男女の傷口に突き刺す様は正に贄を貪る悪魔の形相。斬り落とされた手足を掲げ、杭に突き刺し切断面へ突き立てて、乳房と陰茎を削いで雌雄逆転を楽しむかのように縫い付ける。女の膨れた腹を掻っ捌き、半透明な羊水に包まれた命は産声をあげる事無く狂人達の玩具として消費される運命にあり、祝福されるべき無辜は狂宴の主菜に盛り付けられる。
これは、こいつ等は人間ではない。人間以下の犬畜生……否、それより質の悪い鬼畜生だ。ならばこんな存在を殺して何が悪い。鬼や悪魔を殺すのは善性から成すべき行為の筈。
女の手を振り払い、棍棒を握り締めたグローリアの肩を硬い鋼の掌が掴む。ドス黒い眼に激情を焚べ、殺意の業火を燃え上がらせたダナンは微かに首を横に振るい「耐えろ、正義感なんざ塵滓……何の役にも立たん」と呟いた。
「女、消えろ」
「何よ、アンタはこの人のツレか何か? いいじゃない、少し遊ぶだけなのに」
「消えろと言ったのが聞こえなかったのか? 面倒事は嫌だろ? なぁ少しは退く事を覚えろよクソ女。俺達は急いでいるんだ、本来此処に用事なんて無いんだよ。弁えろ、屑」
カァっと女の顔が憤怒に染まり、憎悪を帯びた意味不明な言葉を吐く。だが、眼前に突き付けられたアサルトライフルの銃口に女は閉口した。
「アンタ本気? 一発でも銃弾を撃ってみな……黒服と麻袋が黙っちゃいないよ」
「冗談だと思うか? 何時でも俺はお前を殺す事が出来る。いや、俺一人だけなら此処にいる連中を全員殺せる。試しにその血濡れ化粧の下にある綺麗な顔に風穴を空けてやろうか? それとも機械腕で顔面を滅茶苦茶に壊せばいいのか? 選べよ、屑」
冗談だとしても笑えない。しかし、ダナンの瞳をジッと見据えていた女はその言葉が真実だと悟り生唾を呑み込む。
殺す以外の選択肢など元から存在しないのだ。死を求めるならば、己が死を直視せざるを得ず、肥大して破裂寸前にまで膨れ上がった加虐心を鎮めるには更なる暴力の渦に身を鎮めるのみ。生粋のサディストである女がダナンから感じ取ったのは強烈無比な自己保存。彼は障害と見做した存在が誰であろうとも殺す覚悟を持っている。
冷たい鋼が額に触れ、引き金が引き絞られる嫌な音が鼓膜を叩く。撃鉄が少しずつ下がり、今直ぐにでも銃弾を発射しようと撃針を弾こうとする。これ以上の言葉は必要無いとばかりにダナンの無言の圧力が女の神経を削り、精神を掻き乱すと一際甲高い悲鳴が女の喉から飛び出した。
「黙れよ、殺すぞ」
「ダナン!!」
グローリアが叫ぶと同時に銃口が天井へ向けられ、火を噴いた。仄かな明かりを灯すライトの一つが銃弾によって弾き飛ばされ、細かな火花と硝子片を散らす。突如鳴り響いた銃声に巨漢が吼え狂い、狂人達が一斉に騒ぎ立てて笑った。
「君は本当にあの人を」
「殺すつもりだった。殺さなければ、もっと面倒な事になっていた」
「面倒な事って、君は」
「お前は抗えたのか?」
「ッ!」
「呑まれそうになった奴が戯言を吐くなよ。お前は俺が歓楽区を脱出するまで生きていて貰わなくちゃ困るんだ。俺があの女を止めなければ、悪趣味なショーに参加せざるを得なかったんだぞ? どうこう言われる筋合いは無い」
ダナンの言い分は理解出来るし、彼は間違ったことを言っていない。もしあの時、グローリアの肩をダナンが掴まなければ、女を殺したのは青年の方だった。己の中に残る人間性が罪を否定し、悪を駆逐しろと叫んだ故に棍棒を握り締めていたのだから。
此処にいると可笑しくなってしまいそうだ。全ての人間が狂い、罪悪が成す欲望に心身共に焦がされている様を見ると自分も同じだと錯覚してしまう。善だと信じていたものを疑い、悪と断じた行為さえも仕方ないと、必要だからと受け入れてしまうことに恐怖する。己の内で確立していた定義が崩れ落ち、歪で醜悪な価値観で再構築される感覚。ダナンの黒い瞳を見据え、深呼吸を繰り返したグローリアは「行こうか」と呟き、機械腕の装甲を叩いた。
「ダナン」
「何だ」
「君は……そのまま突き進んで、何に成ろうと、何処へ向かおうとしているんだい?」
「……」
「確かに鋼は強固で強靭な素材だ。だけど、鋼のままじゃ何時かは腐食して、錆びつき、崩れてしまう。今のままじゃ君は何時か壊れてしまう。壊れて朽ち果てて、下層街の何処かで風化してしまう。ダナン、君は」
「生きていたい」
「……」
「俺は生きていたいんだ。産まれた意味を、生きる意味を知りたいだけ。その為に立ちはだかる障害は殺す。殺さなければ……生きていけないんだから」
血の匂いに紛れ、贄の叫びに掻き消されたダナンの言葉にグローリアは僅かに頷き返す。
誰だって生きていたいと初めは願う。次に生きているだけだと意味は無いと悟り、命の意味と存在理由を探し求めて彷徨い出す。そして最後に全ては無価値で手遅れだと嘆き、絶望に顔を歪ませる。
「……君の願いが叶うといいね、ダナン」
そう呟いたグローリアは階段に足を進め、ヒドロ・デ・ベンゼン三階へダナンと共に向かった。