ヒドロ・デ・ベンゼン三階は二階とは違い静かな空間だった。真紅のカーペットが血に汚れているワケでもなく、誰ものかも分からぬ血肉が壁に飛び散っているワケでもない。狂人の嬌笑と贄の叫喚とはまるっきり正反対……不気味なほどに静まり返った廊にはオルゴールに似た音が微かに流れ、拷問具とは別の子供用の玩具が並び立っていた。
地獄と縁遠い安らかな空間にグローリアはホッと胸を撫で下ろし、それでも尚警戒を絶やさないダナンはアサルトライフルの引き金に指を掛ける。安心するには未だ早いと、無防備な心を曝け出すには時期尚早だと云わんばかりに銃口を廊の先に向け、等間隔で並ぶ木製の扉を睨んだダナンは銃の鋼を指先で叩いた。
「此処は何も無いようだね」
「さぁ……どうだか」
「ダナン、少し気を抜いたらどうだい? 気を張ってばかりだと疲れるだろう?」
「疲れているのはお前の方だ。俺は別に疲れちゃいない」
またそう言って……。一つ息を吐き、廊の真ん中を歩き出したグローリアの目に一人の少女が映った。メイド服を着て、身の丈程の巨大なアタッシュケースを引き摺る少女は扉の前で立ち止まり、インターホン越しで短い会話を済ませると再びアタッシュケースを引き摺りながら歩き出す。ズリズリと、カーペットの毛を逆立てながら。
こんな最低最悪の場所でも子供を働かせる環境は整っているんだね―――一階から二階の惨状を目にしなかったグローリアならば能天気にそう言い放ち、少女へ不用心に近づいていただろう。しかし、狂気が渦巻き、爛れて腐った欲望が満ちるヒドロ・デ・ベンゼンを進み続けたグローリアは、少女が纏う危険な香りを嗅ぎ取り、ダナンを一瞥する。
無意味に年端もいかない少女がアタッシュケースを引き摺り廊を徘徊しているなどありえない。いや、よくよく考えてみれば彼女の様子は……姿形には違和感がある。
証明に照らされる艷やかな黒髪はナイロン製のウィッグだ。その証拠にサイズが合っていないせいか僅かにウィッグと地肌の境界線が明確に引かれ、側頭部に残る痛々しい火傷の痕が見て取れる。それに、歩き方もまた奇妙なもので、右足が動いていないのか引き摺っているように見えた。
何も触れずに進むべきだ。グローリアは銃を構えるダナンと頷き合い、歩を進める。扉の前を通り過ぎ、丁度少女の横に並んだグローリアは息を飲む。
異形と呼ぶに相応しい面貌。少女の顔には在るべきモノが存在せず、本来ならば必要の無いものが存在していたのだ。生皮を剥がれ、露出した筋繊維。刳り抜かれた両目を補う為に入れられた機械眼。削り取られてしまった鼻。血と唾液が滲む剥き出しの歯。ギョロギョロと動き回る機械眼がグローリアとダナンの姿を捉え、声帯に取り付けられたスピーカーから『お客様、どうかなさいましたか?』と合成音声が響いた。
「いや、特にどうとでもないよ。どうかしたのかい?」
『私の顔を見て息を飲んだように感じられましたので。申し訳ありません、私は商品ではありません』
「商品? それは」
どういう意味だい? その言葉を話す前に少女の胸に吊られた機械がけたたましいアラームを発した。
『他のお客様がお呼びのようです。失礼します』
何度も転びそうになりながら、階段近くの扉に立った少女は深々と頭を垂れ『何か御用でしょうか、お客様』と、静かに話した瞬間勢いよく扉が開き、それと同時に子供の泣き叫ぶ声が廊に木霊した。
よく肥えた醜悪な男……人間によく似た豚と形容した方が分かり易いだろう。美しい金髪の幼子を引っ掴み、葉巻を口に咥えた男は少女へ「持ち帰りだ、加工しろ」命令を下し、赤い火種を彼女の筋繊維へ押し付ける。既に痛覚が死んでいるのか、それとも日常的に行われる虐待に慣れてしまっているせいか、文字通り顔色一つ変えずに頷いた少女は目の前に転がされた幼子を見据えた。
『ご要望をお聞きしても宜しいでしょうか?』
「四肢は要らん、穴と面さえあれば用は足りる。手足は犬の餌にするから、肉と骨を分けてくれ」
『承りました。少々お待ち下さい』
パチリ―――と、留め具が弾かれる音がした。金属同士が弾き合い、ぶつかり合う音と共にアタッシュケースが開かれる。
『ご容赦を』
アタッシュケースの中に入っていたものは多種多様な屠殺道具と解体包丁、鎮静剤が満ちるアンプルと真新しい注射器だった。少女は小銃を取り出し、幼子の額に撃ち込むと気絶したことを確認し、男の目の前で素早く四肢を切り分け傷口を縫い留める。その時間僅か十五分。大人でも手間取る行為を平然と済ませた少女は丁寧に肉を削ぎ、真っ白い骨と分けて袋に詰めた。
『商品の賞味期限は三日程度となります。肉道具の管理には十分注意を払って下さりますようお願い申し上げます』
「おう―――」
ふと、男の視線がグローリアに向かれた。
「あ―――」」
尊大な態度を持ち続け、四肢を断ち切られた幼子をカバンに詰めようとしていた男の動きがピタリと止まり、滝のような汗を流す。全身をガクガクと震わせ、地べたに尻もちを着いた男は白いバスローブが血に濡れることも構わずに、歯をカチカチと噛み合わせる。
「やぁ」
「ぐ、グロー」
「二つだけ聞いておこう。君の他に何人いる?」
「お、俺、いや、私は」
「何人の中層民……サイレンティウム幹部が此処から幼子を買って、使い潰しているんだい? まぁ……君の処遇は後にするべきか。私の目的は君じゃないんだ」
玲瓏な憤怒を瞳に湛え、男へ歩み寄るグローリアにダナンはギョッと眼を見開く。純白のダブルスーツには血が飛び散り、手もまた血濡れ、靴には乾いた血肉が張り付いているグローリアは確かに恐怖を煽る姿だった。だが、それ以上にダナンが驚いたのは凛とした声に籠もる明らかな激情の色。
「児童虐待と性的搾取は厳しく取り締まることを知っているだろう? いや、知らないとは言わせない。言ってはいけないんだよ、それは君の立場が示している。なぁ、君は何人犯して、壊して、捨てたんだい? 言ってみなよ、聞いてあげるからさ」
「わ、私は騙されたのです! アイツに、ディックに騙されたのです! グローリア総帥! 信じて」
「信じられる筈が無い。証拠も無しに私が此処に居ると? 下層街に私自らやって来るのはね、それ相当の理由と相応の意味があるんだよ。以上、君にこれ以上話を聞く必要は無い。時間の無駄だ。後は治安維持警察にでも話してくれ」
力なく涎を垂らし、グローリアの圧倒的な威圧感に精神を押し潰された男は最後の抵抗とばかりに「……舐めるなよ、若造が」と呟く。
「……」
「俺はなぁ、貴様の父親、先代の頃から努力してこの地位に上り詰めたんだッ!! それを、貴様のような若造に潰されて堪るかッ!! そうだ、殺してやる……貴様を殺せばそれで住む話しだ!!」
指を鳴らし、男の背後から影のように現れた黒装束。強烈な殺気を感じ取ったダナンはグローリアの首根っこを掴み、後方へ投げ飛ばすと黒装束が放った凶刃の一閃を機械腕で受け止める。
シークレット・ニンジャ―――。紫電を纏い、突き出された抜手がダナンの頬を掠め、皮膚を焼く。両腕を機械義肢に換装しているのだろう。機械腕が防いだ得物は不可視の刃であり、空気に紛れる揺らめく刀。予測不能な方向から繰り出される凶刃の一撃に胸をアーマーごと斬り裂かれたダナンは夥しい量の血を吹き出し、痛みに呻く。
「ダナン!!」
常人の観点からしてみればダナンの傷は致命的なものだった。現にグローリアはダナンが死んだと思っていたし、彼の命を救うのは不可能だと断じていた。
だが……この程度の傷はダナンの心臓に宿るルミナの蟲が修復する。骨肉切断。血を流しながらもその場に踏み留まり、脇に抱えていたハカラをグローリアへ投げ渡したダナンは機械腕から超振動ブレードを展開すると同時にアサルトライフルの銃口をニンジャへ向け。
「叫ぶなよ……お坊ちゃま」
と、口に溜まった血を吐き捨てながら引き金を引いた。