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血清

 ガンホルスターからショットガンを抜き、照準をアェシェマの頭に合わせる。ショットシェルの内部から撃ち出される散弾でアェシェマを殺せる筈が無いと知りながら、引き金に指を掛けたダナンは首に冷たい刃を押し付けられる。


 「お客様、如何なさいましたでしょうか?」


 「……」


 「銃を下ろして下さい。もし引き金を引くようならば」


 「俺を殺すってか?」


 瞬間、機械腕の装甲が二つに割れ、超振動ブレードが展開された。ダナンの首に銀のナイフを押し付けていたバトラーは意識外から振るわれたブレードを膝を曲げ、地面スレスレまで身体を倒して避けきり、後方へ転がりながらスーツの裏地から銀食器を取り出し五指の間に挟む。


 「……」


 普通の人間が出来る芸当じゃない。曲芸師か軽業師を彷彿とさせるバトラーの殺意がダナンを居抜き、トレーを片手に給仕に勤しむ他のメイド達もまたスカートの裏に手を忍ばせ小型拳銃デリンジャーを抜いた。


 もし肉欲の坩堝構成員が給仕や執事の姿に扮しているならば、アェシェマへ銃口を向けたダナンを即刻排除しようと動くだろう。だが、殺意と敵意を醸し出しながらも未だダナンの様子を伺うバトラー達は食器に偽装した得物を手にスーツの埃を掌で払うだけ。彼らの様子からダナンはまた別の組織或いは勢力がヒドロ・デ・ベンゼン四階に紛れ込んでいることに気づく。


 引き金に掛けられた指が冷えた金属の感触をなぞる。鋼の唸りをあげる機械腕の手指を曲げ伸ばしたダナンは自分達を見つめる紳士淑女を一瞥した。


 これ以上場を乱すのは得策と言い難い。だが、アェシェマの口を塞がねば、欲望の権化たる狂人を野放しにする程甘くはない。超振動ブレードを格納したダナンはグローリアと談笑するアェシェマに自ら進んで歩み寄り「何のつもりだ」と冷たく言い放つ。


 「あぁアノニス、この方と知り合いなの?」


 「お前は少し黙ってろ。アェシェマ……何の目的があってこの場に居る。吐けよ、売女」


 ダナンのドス黒い瞳の奥に燃え盛る、激情の業火が薄い笑みを浮かべるアェシェマを射貫く。彼女はそんなことなどお構い無しと云った風に羽根つき扇子で自身を扇ぎ「別に何も……。言ったでしょう? 今は何もしないって……ねぇ黒い人」阿片が詰まった細い煙管を口に咥え、紫煙をダナンへ吹きかけた。


 鼻の奥に残る厭な臭い。砂糖を煮詰め、人工甘味料を許容量一杯まで混ぜ込んだ歪な香り。煙管の中で燃える火種はアェシェマが一つ息を吸うとバチバチと勢いよく弾け、真っ赤な火の粉を舞い散らし、紫煙と共に強烈な甘い匂いを空気に溶かす。


 咽返りそうな程の匂いの中に漂う腐臭。仮面で素顔を隠し、衣服や雰囲気を変えていようともダナンには分かる。アェシェマという狂人が発する狂気は、滲み出す醜悪な雰囲気は常人の比では無いと。


 「アノニス……?」


 怪訝な表情を浮かべるグローリアの手を掴み、アェシェマから逃げるように距離を取ったダナンは「……胸糞悪い」と一言呟く。


 「どうしたのさ一体……理由を聞かせてくれるかい?」


 「アェシェマだ」


 「アェシェマ? 肉欲の坩堝首領がどうかした」


 「あの女がアェシェマだ、狂人を相手にする必要は無い」


 遠ざかる二人を眺め、両目をニンマリと歪めるアェシェマに底知れぬ恐怖を感じ取る。何故此処に居るという問いは愚問。歓楽区最大の娯楽施設ヒドロ・デ・ベンゼンを運営する組織は肉欲の坩堝であり、彼女はその首領なのだ。歓楽区でダナンを追い、ダモクレスの行動を把握することなどアェシェマにとって朝飯前、組織の人間を使えば簡単に知り得る情報に過ぎない。


 さっさと次の階層へ向かうべきだ。一刻も早くこの区から逃げ出したい。早足で階段へ向かい、襟首を直したダナンの視界に赤髪の少女が映る。


 「……ッ」


 少女の顔がどんなに昔の馴染と似ていようと、声が同じだろうと、全く別の存在だ。これ以上気にする必要は無い。後ろ髪を引かれる思いを噛み砕き、混乱の縁に立つ精神を必死に保っていたダナンに赤髪の少女が一言「……上、行かない方がいいよ」と囁いた。


 「……」


 綺羅びやかで可愛らしい子供用のドレスで身を着飾った赤髪の少女がジッとダナンを見据え、昔と変わらない笑顔を浮かべた。そして、父と呼ぶ男に手を引かれて人混みに消える。


 「……ダナン」


 「……アノニスと呼ばないのか?」


 「もうその必要が無いからね。あの子とどんな関係なんだい?」


 「……お前には関係ない」


 「関係ないとは言えないだろう? 君は自分がどんな顔をしているのか一度鏡で見たほうがいいよ。今にも泣きそうな子供みたいだ」


 「黙れ」


 「黙らない」


 「黙れよ……頼むから、黙ってくれ。俺に触れるな、俺のことを知ろうとするな。俺とお前は」


 「友人、だからね」


 ハッと息を飲み、グローリアを睨んだダナンの頬に白い手が添えられる。


 「君が私を信じようとしなくても、頼ろうとしなくても、私は君を信じるよダナン。だから君も私を信じてほしい。これっきり……この場所で終わるような関係にはしたくないんだよダナン。だから」


 「……昔、あの娘と全く同じ姿形をした少女を知っている」


 グローリアの手を振り払い、奥歯を噛み締めたダナンから搾り滓のような声が漏れ。


 「アイツが俺をどう思っていたのか、どんな風に見ていたのか分からない。だが……今にして思えば初めての友達だったんだと……そう思う。グローリア、下層街で友達を持つなんてことはな、贅沢なことなんだよ。誰もが他人を喰らおうとして、利用しようとする世界じゃ……信用や信頼は薄っぺらくて信じられたものじゃない」


 失い、奪われ、壊された過去を吐く。


 「奪わなければ奪われる。壊さなければ壊される。殺さなければ殺される。弱者が全てを失うのは当たり前、強者であってももっと強い奴には敵わない。友好的な人間は皆背にナイフを隠し持っていて……まだ敵対者の方が良心的だ。そうだろ? グローリア」


 「……」


 静かで、怒りと憎しみに満ちるダナンの声は玲瓏に狂い咲く激情の炎のようだとグローリアは思う。下層街という悪意にどっぷりと浸かった過酷な環境は、人の罪を増長させる無法の流刑地。中層街で生きる人間が下層街を訪れたとしても、それは深い井戸の水面を掌で掬った程度でしかない。


 きっと彼は己では想像し得ない絶望を経験し、決して飲み下すことが出来ない罪悪を喉にしたのだろう。両手を血に染め、感情を押し殺し、人が死ぬのは当たり前だと納得して、下層街が育む悪の中で生きてきた。死にたくないと、生きていたいと願いながら。


 痛みを知り、傷を負い、辛酸を舐めた彼ならば己の願望を……手を伸ばしても、舌を伸ばしても届かない尽きぬ渇きを癒してくれるのかもしれない。銀の少女が浮かべたあの感情を味わえる。深い溜息を吐いたダナンの肩に手を添え、優しい微笑みを浮かべたグローリアは「君が私を遠ざけようとしても、友人と言い続けるよ」と話した。


 「……勝手にしろ」


 「じゃ、勝手にさせてもらおうかな。今後とも宜しく頼むよ、ダナン」


 「……」


 グローリアを一瞥したダナンは無言で階段を上る。


 思えば……ゲートの守衛任務に着く治安維持兵の男も己を友人だと思っているのかもしれない。もし歓楽区から五体満足で脱出し、イブの治療が終わったら彼が言っていた居酒屋で話しをするのもいい。


 「時間があったら」


 「ん?」



 「後々治安維持兵の男と酒を飲む予定がある。その時……お前も来るか? グローリア」


 「お言葉に甘えてお邪魔しようかな、ダナン」


 「あぁ」


 そう言葉を交わしたダナンとグローリアはヒドロ・デ・ベンゼン五階へ向かうのだった。



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