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C₁₇H₁₉NO₃

 周囲の人々の視線が一点を見つめ、感嘆に濡れた吐息を吐く。


 綺羅びやかなシャンデリアの下に歩み出るは純白のドレスを身に纏った美女……もとい女装したグローリア。金糸のような髪を煌めかせ、白い肌を肩から胸元まで晒すグローリアは何処からどう見ても女性にしか見えず、彼が男だと誰も予想できないだろう。現に、ダナンでさえもグローリアがドレスを着て眼の前に現れた際は、本当に彼であるか疑う程だった。


 「グローリア」


 「何だい? ダナン」


 「俺達の荷物と装備はどうなる」


 「その事に関しては特段気にする必要は無いよ。私達が此処から出る際に返却されるだろうからね」


 「……そうか」


 着慣れないスーツの襟首を摘み、喉とシャツの間に僅かな隙間を作ったダナンは不服そうな表情を浮かべ、欲望に燃える周囲の人間を睨み付ける。


 社交の場は陰謀と策謀が渦巻く蠱毒なのだ。相手の価値を鑑みて、利益になるようならば牙に毒を滴らせ噛みつこうとする毒蛇ばかり。グローリアへ熱い視線を向ける紳士が手を拱き、扇子を仰ぐ貴婦人は二人を毛先から爪先までネットリと値踏みし、小間使と思わしき下男へ小声で指示を下す。ヒドロ・デ・ベンゼン四階に訪れた時とまた違う……重苦しく不穏な空気をダナンは感じ取る。


 一刻も早くこの場から去りたい。無意識の内に手が刀剣ヘレスの柄を握り、鞘と顎が細かな金属音を奏でた。黙って喰われるくらいならば、此方から喰らうべきだ。奥歯を噛み締め、敵意に満ちた睨みをきかせるダナンの手に白い手がそっと添えられる。


 「抑えてくれないかダナン」


 「……」


 「此処を抜けるまで、耐えてくれ。もうすぐ私の目的は達成できる。そして、君も安全に歓楽区から抜け出すことが出来るんだ。だから……頑張ってくれダナン」


 小さく舌打ちし「……あぁ」と返事したダナンは腕を組み、深呼吸を繰り返す。


 権力の中では己は無力。血で血を洗う戦いとは別の……言葉の裏に隠された意図を読み取り、返し刃で利を得る戦いは不慣れ。ならばこの場はグローリアに任せる方が合理的な判断と云える。トレーを片手に練り歩くバトラーから煙草を貰い、口に咥えたダナンは火を着け紫煙を吐く。


 「そこのお嬢さん」


 ふと、仕立ての良い紳士服を着た男がグローリアへ笑顔を浮かべながら話しかけ、手を差し出す。


 「貴女も招待されたのですか?」


 「えぇそうなんです。えっと……貴男は」


 「あぁ私はサイレンティウム福祉課の主任でしてね、ディック部長の誘いに応じただけですよ。いや下層街にこんな場所があったとは知りませんでしたよ」


 「私もです。サイレンティウムの福祉課と云えば……グローリア総帥が力を入れている事業を担当されている課ですよね? 出世コースに乗っているのですね」


 「出世コースだなんてそんな……。私は私のやるべき事をしているだけで、動いているのは部下の方ですよ。貴女はどこの課所属なのですか?」


 「私は総務課ですね。今日は私の婚約者と一緒に来ましたの」


 綺麗な女声で男と話していたグローリアがダナンに身を寄せ、頬を紅潮させながら微笑みを浮かべる。演技だとしても此処まで相手と話を合わせる姿に、ダナンは恐ろしい蛇の片鱗をグローリアから感じ取る。


 「婚約者……? 彼がですか?」


 男がジロジロとダナンを見つめ、訝しむ。それもその筈、美女と言い得るグローリアの隣に立つダナンは中層街に存在しない異物。鷹のように鋭い目つきと燃え尽きた灰を思わせる髪、古傷が刻まれた褐色肌、戦闘用機械義肢の右腕……。二人の姿はさながら美女と野獣、冷厳と慈愛と云ったところか。


 「えぇ、彼は下層街で長らく治安維持兵として勤務していまして……。やはり過酷な環境は人を変えてしまうのでしょう。ですが、彼は彼、私は私。二人の間にある愛は不変なのです。そうでしょう? アノニス」


 アノニス? ダナンの指先がピクリと反応する。


 「無口な人でして……。いえ、元々口数が少なかったんですけど、中層街に戻ってからというもの悪夢に魘されているです。医者からは心的外傷……トラウマがあると」


 「それはお気の毒に……」


 体の良い偽名と作り話。ありえない話を次々と口から発し、相手の同情心を誘うグローリアの戦い方は熟練の詐欺師と同等……否、それ以上の手腕だ。内心舌を巻き、流れに身を任せていたダナンの視界の端に赤い髪がチラリと舞う。


 「お父様? お友達ですか?」


 息が止まる感覚。男の傍に駆け寄った少女を視界に映したダナンが「ありえない……」と呟き、燃え盛る炎のような髪を持つ少女をジッと見据え。


 「お子様ですか?」


 「えぇ、血の繋がりを持たない娘なのですが……可愛い愛娘です。ディック部長から紹介された孤児院サイトから引き取った子で、出身は下層街なんですよ」


 「孤児院サイト?」


 「はい。えっと……確かサイト運営者は肉欲の坩堝なんて物騒な名前を持つ方なのですが、遺伝子や肉体及び精神的異常性を持たない子を里子に出しているんです。妻は子が出来ない身体でして……ディック部長には感謝していますよ」


 少女にふらふらと近づいたダナンはガンホルスターのショットガンに手を伸ばす。


 「アノニス? どうしたの?」


 「……生きている筈が無い」


 「生きている筈が無いって何が?」


 「あの娘は……そいつは死んだ筈だ!! 地下水路で死んでいた!! なのに、何故生きている!? ありえない……悪い冗談だろ? 何だよ……ふざけるなよッ!!」


 叫び、半ば錯乱した状態のダナンが少女に向かって吼え狂う。突然の出来事に男の表情が凍りつき、少女は泣き出してしまう。


 「失礼します。彼は子供を見ると取り乱してしまうんです。アノニス、行きましょう? 少し休んだほうがいいわ」


 「黙れよ……ッ!! グロー」


 「アノニスッ!!」


 乾いた音が木霊し、グローリアがダナンの頬を平手で叩く。


 「……休みましょう。貴男は疲れているの」


 「……ッ」


 じんわりと……焼け付く痛みを訴える頬を機械腕で擦ったダナンは空いている椅子に腰掛け深く項垂れる。その様子を見ていた男は少女の手を引きそそくさとその場を離れた。


 「……」


 「貴男」


 「……黙れ」


 「子供が嫌いなの?」


 「黙れよ……撃ち抜くぞ」


 ダナンの隣に座る貴婦人の、仮面の奥に見える瞳が赤い髪の少女を捉えて離さない。


 「随分と怖い言い方をするのね」


 「……」


 「綺麗な彼女さんを置いていいの?」


 「戯言をのたばうな」


 「そ、貴男もなに? 此処に子供を引き取りに来たんじゃないの?」


 「……は?」


 「それとも気に入った、好いていた女のクローンを受け取りに来たの? いやね男って。何時になっても女の幻影を追っているんだから」


 鋭く研ぎ澄まされたドス黒い瞳が貴婦人を射抜くが、彼女は薄い笑みを浮かべながら扇子を扇ぐ。


 「あら違うの? ならその人に成りに来たのかと思ったわ」


 「何を言っている」


 「何をって……此処に居るということはそう云うことでしょう? 可笑しな人ね」


 貴婦人が立ち上がり、ぐるりと周囲を見渡すと指を差し。


 「みんな、みぃんな仮初の姿で此処に居るの。誰もが虚像を被って、偽りの人格で他者を欺き喰らおうとする。ねぇ……貴男もそうじゃないの? 黒い人」


 ゾクリと―――ダナンの背に悪寒が奔り、強烈な甘い腐臭が鼻腔を突く。


 「まさか……お前は」


 アェシェマ―――。そう呟いたダナンへ歪な笑みを浮かべ、醜悪で美麗な相反する顔を覗かせた貴婦人……肉欲の坩堝首領アェシェマは「今は何もしないわ、そう、今はね」と呟き、グローリアへ歩み寄った。


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