ヒドロ・デ・ベンゼンは全五階から成る娯楽施設だ。それぞれの階層が全く別の顔を持ち、ゲストの内に滾る欲望を露呈させ、煤になるまで心身ともに燃え上がらせる。罪に濡れて、悪に染まり、果てしない欲望の闇へ大口を開けて引きずり込もうする顕現した奈落とでも形容するべきだろうか。一度落ちたら這い上がることは困難、肉体と精神に刻まれた罪悪は個我を蝕み狂気へ導くのだから。
こんな場所に長い時間居たら、空気に紛れて漂う狂気に曝され続けていたら可怪しくなってしまう。僅かに香った甘い腐臭を嗅ぎ取り、ふと足を止めたダナンはヒドロ・デ・ベンゼン四階から流れ込む吐き気を催す香りに眉を引き攣らせ、ショットガンをガンホルスターから抜き放つ。
「ダナン? どうしたんだい?」
「……何も臭わないのか? お前は」
「匂う? 何が?」
怪訝な表情を浮かべるグローリアは本気で分からないと小首を傾げ、階段を上りきる。
用心しておくに越したことはない。この臭いを発している存在……アェシェマの脅威をグローリアに伝えるべきか否か。一歩、また一歩と歩を進め、視界がくらりと歪む程の強烈な腐臭を嗅いだダナンはすかさず周囲へ視線を巡らせ、唖然とする。
豪華絢爛な調度品と身形の良い男達、そしてワイングラスを片手に談笑するドレス姿の女子供。合成革ではない本物の牛皮をしようしたソファーに腰を沈め、燕尾服を纏ったバトラーやメイドが持ってくる飲食物を口にする空間はさながら高級クラブ……社交場の様。一階から三階にかけて見られた欲望の業火は存在せず、落ち着いたクラシックが流れるヒドロ・デ・ベンゼン四階に下層街歓楽区の面影は無い。
しかし……ショットガンのグリップを握るダナンの手が鋼の軋みをあげ、力強く握られる。四階を包み込む甘美な腐臭が彼の脳を刺激し、警戒を絶やすなと強く訴えかける。
ダナンとグローリアの様相はこの場に相応しくない憔悴しきった姿だった。黒いアーマーに身を包み、刀剣を腰から提げてショットガンを構えるダナン。純白のダブルスーツを血に染め、赤褐色の乾いた血が張り付く両手のグローリア……。談笑する貴婦人全員が羽つきの扇子で口元を隠し、艷やかなスーツを纏う男達が侮蔑の視線を向けている。
「お客様」燕尾服のバトラーが二人に近づき深々と頭を垂れ「新しいお召し物をご用意しております。失礼で御座いますが、交換して頂けませんでしょうか」と静かに言う。
「断る」
「ですがお客様、この階層はドレスコードが必須でして……」
「それでもだ。何だ? 武器を取り上げて殺すつもりか? 身の安全の保証も無いのにそんな馬鹿な真似はするかよ」
「ダナン」
「何だ」
「此処は従うべきだろう」
それでも―――。反発しようとしたダナンの口に手を被せ、周りを見渡したグローリアがそっと「私達はいま値踏みされている」と耳元で囁く。
「……説明しろ」
「この場は社交界を模した階層だ。嫌というほど知っている」
「それで? 両手を上げて殺されろと?」
「……ルールに従うべきだろう。それに、一応策もある」
「……」
グローリアがダナンの前に歩みだし、バトラーへ「この方は私の友人でね、ボディガードの役目を買って出てくれたんだ。武器の携帯を認めて欲しい。いいかい?」カードを見せながら微笑み、白く整った歯を見せた。
「畏まりました。では更衣室へご案内致します」
「ありがとう。あぁ、それと」
「他に何か御座いますでしょうか?」
「食事は不要。私達は五階に用事があるからね」
「はい」
バトラーの後ろに付いて歩くグローリアはダナンへウィンクする。
「どういうことだグローリア」
「どうもこうもないよダナン。君は自分に与えられた役目を全うしてくれ」
「役目だと? お坊ちゃまのお守りでもしたらいいのか?」
「全く君は口が悪いね。その通りだよ、君は私の友人であり、護衛なんだから」
「……そうかよ」
不機嫌そうな言葉を返し、不満と反発心を隠さないダナンにグローリアはクスリと笑う。彼から武器を取り上げることは不可能だと断じているが、それでは次の階層に進むことなど叶わない。故に、グローリアはダナンへ従者の役割を与えた。恐らくだが……ダナンはそれが気に食わないのだろう。
周囲の視線が痛い。場を乱そうとする者を排除しようとする眼が己等に突き刺さる。社交場は狡猾な蛇がうねり狂う欲望の巣窟なのだ。利益を追求し、有利になる縁を求めて彷徨う悪鬼が彷徨う謀略の廊。グローリアは頻りに視線を寄越す貴婦人を一瞥し、手を拱く紳士へ笑いかけながら木の扉の前に立つ。
「此処が更衣室で御座います」
「あぁ分かった。ダナン、スーツの着方は分かるかい?」
「……知ってるとでも?」
「……先に私が着替えてくるから、君は着れるところまで頑張ってくれ」
「あぁ」
短い会話を済ませ、更衣室に入った二人はそれぞれ個室へ閉じこもり、衣服を脱ぐ。
スーツなど着たことが無かった。何時もシャツを着て、アーマーか老人のコートを羽織るダナンに縁遠い黒服。記憶の中に生きる老人はスーツを着こなしていたが、その姿を思い出しながら袖に腕を通したダナンは「……苦しいな」と一言呟き、ネクタイを目茶苦茶に締める。
深い溜息を吐き、姿見の前に立ったダナンは黒スーツの袖口から伸びる機械腕に視線を向ける。白いシャツとは対照的、それでいてスーツの布地と一体化して見える黒い機械腕は何処か手袋のように見えて悪くない。これならば不意打ちで超振動ブレードを敵に突き刺すことが出来る。首を圧迫するネクタイを指先で弄り、ベルトの間に刀剣へレスを差し、ガンホルスターをスーツの内側に隠したダナンは小さく頷き個室から出る。
「グローリア」
返事が無い。扉をノックし、耳を近づけたダナンは部屋の中からシャワーの音を聞き取り腕を組む。
別に血が付いているぐらい何ともないだろうに。いや、中層街のお坊ちゃまは生臭い血の臭いが嫌で嫌で堪らなかったのだろうか? グローリアを待つ間、ぼんやりと更衣室を眺めていたダナンはもう一度溜息を吐き、機械の指で反対側の腕を叩く。
次の階層に進み、グローリアの目的を達成したら事は全て終わる。そうしたらハカラを持って、隠れ家へ向かいイブの治療をする。その為に……こうして無駄な時間を費やして安全に歓楽区から脱出する手を打っている。彼がどれだけその後の関係を望んでいようが関係ない。今は目的のことだけを考えろ。
「……」
ふと……赤い髪が視線の端に映る。
「―――」
綺麗なドレスに身を包み、明るい笑顔を浮かべる一人の少女に視線が釘付けになり、息をするのさえ忘れてしまう。
「―――何で」
あの姿は……いや、違う。あの子は死んだ筈だ。暗い下水道の中で、ひとり寂しく白骨死体となって死んでいた。それに、齢も己とそう大差ない筈。生きていれば既に二十を超えた大人の女。少女の姿である筈が無い。
ダナンの視線に気がついたのか、少女が赤い瞳で青年を見つめ、不思議そうに小首を傾げて更衣室から立ち去った。その場に縫い付けられたかのように立ち尽くし、固まっていたダナンは両目を擦って幻だと何度も呟き頭を振るう。
「違う……。生きている筈が無い。あれは別人だ……絶対に、違う」
「何が違うんだい? ダナン」
「―――ッ!?」
ハッと息を飲み、銃を抜いたダナンは驚いた様子で眼を見開くグローリアを視界に収め、彼もまたギョッとする。
「……悪趣味だ」
「何が?」
「お前は男だろう? 何故ドレスを着ている」
「いいだろう? 偶には違う服を着てみようと思ってね」
「……意味が理解らん」
純白のドレスを着たグローリアは平たい胸の女にしか見えなかった。元々中性的な顔立ちで、男か女かも分からない声であったが、ダナンはグローリアのスーツと体格から男と見抜き接していた。だが、こうしてドレスを着られれば本当に分からなくなる。
「ダナン」
「何だ」
「似合ってるかい?」
「どうでもいい。用が済んだら行くぞ」
「あぁ……君はそういう奴だったね。ちょっと待ってくれよ」
ダナンのネクタイを解き、結び直したグローリアから芳しいシャンプーとボディソープの匂いが香り。
「見てくれだけはしっかりしないとね。そう思わない? ダナン」
「勝手にしろ」
美女と言い得るグローリアを睨んだダナンは更衣室の扉を開けた。