理想を抱いて生きることは素晴らしい。夢を語る他者の姿は眩しすぎて見てられない。身に突き刺さる悪意をモノともせず、自分だけが得をして勝ち逃げしようとする輩は許さない。ダナンにとってグローリアが語った希望は手が届かない夢物語であり、己には決して訪れない理想郷。握る胸倉から手を離し、機械腕の鋼を撫でる指を振り払ったダナンは奥歯を噛み締めると歯茎から滲み出た血を吐き捨てる。
「勝手にしろ」
「……」
「どうせ俺とお前は事を終えたら関係を失う赤の他人……お前がどんなに俺のことを友人と呼ぼうが、何度名前を呼ぼうが中層街に戻ったら無関係になる。下層街で生きる俺とは文字通り住む世界が違うんだからな……ッ!」
そうだ、グローリアとは友人という利害関係を結んだ他人同士。情も無ければ、心が通じ合っているとも思ったことは無い。悲しそうな瞳から視線を逸らし、機械の指を軋ませたダナンは苛ついたように拳を握り、壁を殴る。
「ダナン……」
「もういい、これ以上俺を惑わそうとするな。進むなら歩け、戻るなら背を向けろ。これ以上……何も話すなよグローリア」
両手を股の前で重ね合わせ、微動だにしない少女を一瞥したダナンは階段へ歩を進める。剣呑とした雰囲気を纏い、触れれば切れるナイフのような激情を醸し出すダナンを見つめたグローリアは「イスズ、その子を宜しく頼んだよ」とシークレット・ニンジャへ言い渡す。
「畏まりました。それで、この娘の名は」
「まだ無い。まぁ……此処での用事が済んで中層街に戻り次第諸々の手続きをしようと思っている。チクアンのところまで頼んだよ、イスズ」
「ハッ」
『お客様』
イスズに手を握られた少女が深々と頭を垂れ、渇いて茶けた筋繊維の向こう側……のっぺらぼうのような顔に嵌められた機械眼でグローリアを見据え。
『私には商品価値が存在しません。廃棄間近となっている私をどうして購入しようと思ったのですか?』
「それは……私の我が儘さ」
『ハッキリとした理由をお話しください』
「大人が犠牲になるのは仕方ない。どんな場合であれ、成人年齢に達した人間にはそれ相応の義務が発生する。義務の対価に権利が与えられ、ある程度の自由が保証されているのが私が見る大人という存在さ。だが子供は違うんだよ」
一呼吸置き、少女の目線に合わせるようその場にしゃがんだグローリアはそっと肩に触れ、優しく抱き締め。
「君達は……まだ未来を霧で包まれている子供達は大人が守らなきゃいけない。大人の弱者であっても、自分よりも弱い子供を簡単に殺すことができる。だから、私達は大人という立場を以て子を守る責任を果たさなければならないんだ。
私には下層街のルールは分からないし、無秩序の中にある僅かな法も理解しきれない。けど……中層民が犯す罪を……持ち帰る悪を赦してはならないんだよ」
ナイロン製のウィッグを撫でた。
少女にとって大人に触れられることは、トラウマを刺激される行為そのものだった。犯し、辱め、身体を壊して笑い転げる大人は悪であり、罪に狂う歪で醜悪な存在。己の商品価値が喪失し、廃棄処分される時まで己と齢が近い少年少女を加工する生活に耐える為に、彼女は心を殺し続けていた。
感情の発露が上手くできない。笑いたくともどうやったら表情筋を動かせるのか忘れてしまった。溢れ出す清い一滴の名を喪失し、くぐもった合成音声を声帯に取り付けられたスピーカーから漏らした少女は、人差し指と中指を無くした手をグローリアの首に回す。
初めて人間の優しさに触れたような気がした。産まれてこのかた暴力の世界で生きてきた少女は、わんわんと泣き喚き、涙で濡れた筋繊維を指で擦る。
「イスズ、行ってくれ」
「貴男はどうするのですか?」
「私にはまだやるべきことがある。私の……友人も待っているからね」
「この男はどうしますか?」
「縛って投げ捨てておくといい。彼はもう逃げられない……いや、彼等は私が逃がさない」
へたり込み、頭を抱えて絶望の底に沈む男を一瞥したグローリアはスーツのポケットに手を突っ込み、古びたジッポライターを取り出すと蓋を軽く弾き上げ、また閉じた。
「ダナン」
「……何だ」
「すまない、少し迷惑を掛けたね」
「あぁ」
「もう君を困らせない。約束するよ」
「……そうか」
さっさと行くぞ。そう呟いたダナンの横にグローリアが立つ。
「ダナン、その、私はサイレンティウム総帥グローリアなんだけど、すまない……名乗るのが遅くなった」
「どうでもいい」
「え?」
「お前は中層街の人間で、俺は下層街の人間。さっきも言ったが、どうせ此処での事が済んだらもう会わない人間なんだよ。だから一々気にしていても仕方が無い。そう思わないか? グローリア」
「……それでも名乗るよ私は」
「……」
「私は君とこれからも友人でありたいんだ。勿論価値観も、生き方も全く違う者同士ソリが合わないのかもしれない。けど……こうして真正面から意見を言い合える関係ってのは貴重だと思わないか? ダナン」
「……」
自分だけが生き残れればそれでいい。他人を踏み台にしても生き延びることが出来たのなら、それだけで勝ちは確定する。自我を守る為に感情を押し殺し、罪悪の業を背負って生きる。下層街に蔓延する弱肉強食の理は人間らしさを認めない。
高尚な理想に生きる人間と低俗な生存本能で生きる人間は相容れない水と油。それはダナンも重々承知しているし、無理だと判断している故に諦めた。手が届かない憧れを握り締めるなど星を掴み取るような夢想。否、何を求めているのかさえも分からぬ己は願望と名の付く星を見ることさえ叶わない。求め、欲しているモノを探し、暗闇の中で藻掻く獣……それがダナン自身が見る自我なのだ。
故にグローリアを直視することが怖かった。絶望に染まった世界を果敢に歩き、血と暴力で濡れた道へ理想という松明を燃やし、己の願望を篝火に焚べて炎を掲げる姿にダナンは恐れを抱いた。
汚濁と混沌だけが支配する欲望であれば、グローリアもまた己と同じ人であると認識できた。初めて殺人を犯させ、絶望の闇に眼を曇らせたグローリアを見た時、ダナンは安心した。
あぁ……アイツも同じ人間なんだな、と。だが、彼と話をして少女への態度を見たときにまたダナンは戦慄したのだ。何故取り返しのつかない罪を負ってもまだ挫けない。何故そんな綺麗な言葉を吐く事が出来る。殺人にあれだけの拒否感を示し、生きる為に殺したのに何故優しさを見せることが出来る。
下層街に生きていれば殺人や詐欺、強盗、人身売買といった罪は溢れ返ってそれが普通だと思考が麻痺してしまう。優しさを踏み躙り、甘さを殺し尽くさねば生きていけない世界では中層街の甘ちゃんは壊れてしまう。況してや最も罪悪に爛れ、肥大した欲望が練り歩く歓楽区ではダナンのような下層民でさえも狂気に冒される。なのに……グローリアは未だ精神を保ち、生き延びている。
心が強いだけじゃない。確固たる己を持ち、貫くべき信念を抱いているからこそグローリアは恐ろしく見えるのだろう。己のようにただ生き延びたいと足掻き、生きる事だけを望んでいないから。
「どうしたんだい? ダナン」
「……別に」
「そう言わずに教えてくれよ」
「お前には関係の無いことだ。話すなよグローリア」
肩を小突くグローリアを機械腕で払い、逡巡したダナンはヒドロ・デ・ベンゼン四階へ足を進めるのだった。