「な、何を言っている! お前には、貴様らにどれだけ金を払ったと思っているんだ! 裏切り者にこれ以上仕事が舞い込んで」
男が唾を飛ばしながら喚き立て、味方だと認識していたシークレット・ニンジャの裏切りを糾弾する。それもその筈、シークレット・ニンジャとは中層街に住む戦闘護衛者の総称であり、金さえ貰えればどんなに汚い仕事でも引き受ける便利屋のような存在だからだ。
報酬と契約は実績によって左右され、一度の裏切りは信頼に傷を付けるもの。信頼を失えば顧客を減らし、信用もまた失墜して過酷な依頼にも従わなければならない。組織や組合に所属しているシークレット・ニンジャであればある程度マシな仕事を回して貰えるが、個人の事務所を構えているニンジャにとって裏切り行為は命取りとも成り得る。
「君」
「……」
「名前を教えてくれないか?」
「……不要」
「不要か否かは雇用主の私が判断することだ。君へサイレンティウムの仕事を回そうと思っていたのだが……どうやらそれも不要のようだね」
サイレンティウムの仕事……その言葉を耳にした瞬間ニンジャの瞳に深い欲望の色が揺らめいた。
「サイレンティウム総帥は多忙でね、中々友人に手紙やメール、贈り物を送ることも出来やしないんだ。それに、用事があって下層街に降りる時も護衛の一人も付けちゃいないお坊ちゃま。君さえよければだが……私の個人的な戦闘護衛者にならないか? 待遇と生活面は保証しようじゃないか」
「……何故」
「何故かと云えば……縁だろうね。近々私も中層街に友人を招く予定なのさ。その為に色々と準備をしなければならない。まぁ要するに手足がほしいんだよ、私以外のね。さぁどうする? 私としては平和的な解決を望んでいるんだが」
ニンジャが握る不可視の刃を指の腹でそっと撫でたグローリアは「もう仕事を与える用意は出来ている」と話し、命の危機も鑑みない。
信用できる筈が無い。信頼関係を築いていない他人の言葉に一つ返事で応答できる筈が無い。逡巡し、刀の柄を握り締めるニンジャの瞳―――生身の右目の代わりに詰められていた機械眼へ一件の電子メールが届き、中身を読んだニンジャは「イスズ……私のことはイスズと呼べ」刃を鞘へ収めた。
「イスズか、うん良い名前だ。それで君に仕事を与えたいんだけど、いいかな?」
「……えぇ」
「先ずはこの少女を中層街へ連れて行ってくれ。身元引受人は私の名……グローリアを使えば下層民であろうと問題なくゲートを通れるだろう。その後はチクアンと連絡を取ってくれ。闇医者だが腕は確かだからね」
「承りました。他に何かご要件は御座いますでしょうか?」
「後は私がやるべきことだ。君は自分の仕事に入ってくれ」
「ハッ」
ニンジャ……イスズが動こうとした矢先に「待て」という低い声が響き、ショットガンの銃口を向けながらダナンが歩み寄る。
「どうしたんだい? ダナン」
「ソイツを殺す」
「何故? もうニンジャは君に危害を加えない」
「保証できるのか? 馬鹿馬鹿しい……命を取り合った者同士そう直ぐに禍根を捨てられる筈が無い。必ずそのニンジャは俺の敵になる。敵になる前に殺すんだよ。不安要素は……不確定要素は排除するべきだ。退けよお坊ちゃま、俺にソイツを殺させろ」
「なら私から命令しよう。イスズ、ダナンの命を奪うことを、襲うことを禁止する。いいね?」
「了解しました」
馬鹿なのか? そう呟き、引き金に指を掛けたダナンは複数の殺気を感じ取り、周囲に視線を巡らせる。
「……」
階段近くのエレベーターで待機する武装戦闘員全員がダナンとイスズへ銃口を向け、今すぐにでも撃ち抜けるようアサルトライフルを構えていた。肉欲の坩堝構成員……ヒドロ・デ・ベンゼンという娯楽施設にとってグローリアと男は金を払った客である。だが、それ以外の二人は相乗りした実質的な部外者なのだ。もし此処でグローリアを殺したら、蜂の巣にされるのはダナンの方で、イスズも例外ではなかった。
「……今回だけだ。もう一度俺に刃を向けてみろ、次こそは必ず殺してやる」
「……すまないねダナン」
忌々しく、憎らしい……。命を狙ってきた存在を見逃すなどあってはならないこと。イスズがグローリアの命令に生涯従う保証はない。もし彼が死に、命令が無効になったとしたらイスズは再びダナンの命を狙うだろう。シークレット・ニンジャとして生きる為に、失った信用と信頼を取り戻すべくもう一度刀を握る。ダナンがイスズの死に固執し、執拗に殺そうとするのは己の命を守る為なのだ。明日か今日かも分からぬ命を繋ぎ止める為に。
深い溜息を吐き、ショットガンとへレスを鞘に収めたダナンは微動だにしない少女を一瞥し、もう一度溜息を吐くと「このガキをどうするつもりだ」とグローリアに問う。
「私の養子にしようかと思ってね、その子は自分のことを商品じゃないと言っているけれど、それはこの施設で商品価値が無いということだろう。ダナン、私は思うんだ」
「思う? 何を?」
「今ある命より、明日の命を救わねばならない。正直言うとね、私は自分の命はどうでもいいと思っている。もし私が死んだとしても、次の誰かが私の代わりを努める。だが、女性と子供はね……男が守るべきだ。連綿と続く未来の為に、弱者を切り捨ててばかりじゃいられない」
「そんなもの」
ただの理想論だ、現実は弱者だけが死んでいるだろうに……。グローリアが語る理想に憎悪の炎を燃やし、馬鹿な阿呆だと吐き捨てたダナンは拳を握り、微笑みを浮かべる青年を睨む。
在りもしない夢を語るのは許せる。個人の主義思想に口出ししても無意味だと理解している。理想の為に奔走し、努力する姿は美しいと断じよう。だが、その理想を他者へ押し付けてくることだけは許せない。やるなら一人でやれ。誰かを巻き込もうとするな。明日を望んでいようとも、未来を望んでいようとも、死ねば全てが終わる。弱ければ……全てを失ってしまうのだから。
「じゃぁ何だ? お前はこのガキ一人を救うことで満たされようとしているのか? それはただの自己満足……お前の欲望を押し付けているだけだ」
「そうだね」
「そうだねじゃないだろ……! 責任は取れるのか? お前はこのガキが……最低最悪な街で育ったガキが中層街で生きていけると思っているのか⁉ 答えろよグローリア!!」
「……初めて私の名を呼んでくれたね、ダナン」
憤怒の色に染まったダナンが牙を剥き、グローリアの胸倉を掴み上げる。彼の言葉に己の生き方を全否定されたような、諦めて見てみぬフリを決めた現実がダナンの感情を揺さぶり、腹の底から湧き出る憎悪を直視させる。
「ダナン」
「黙れよ……ッ!!」
「私はね……人の善性を、明日に希望を寄せる想いを信じたい。だから先ずは私が信じねばならない。サイレンティウム総帥である私が他者を信じなければ、優しさを見せねば誰も従わないだろう。ダナン、君には君の生き方があって、それを正しいと信じるならば私は否定しない。そして、私の生き方を強要するつもりもない。だが……少しでもより良い世界が実現出来るのならば私はこの生き方を貫くだけだ」
「耳障りの良いことを話すなよグローリアッ!! いいか? お前がどう足掻こうと、自分の背を見せて藻掻こうと変わるのは中層街だけなんだよ!! 下層街は何も変わらない……それどころか悪化の一途を辿るだろうよ!! お前は神にでもなるつもりか? えぇ?」
「……神はただ安楽椅子に座って人間を俯瞰しているだけさ。もし神になろうとする人が居るのなら、私は心底侮蔑するね。私は神に成るつもりはない。人間は……自分達の足で立つべきだ。罪を背負っても、罰に喘いでも、傷に呻きながら進むしかないんだよダナン……」
「なら!!」
「手が届く場所から、目に見える誰かから救う。その誰かが罪悪に身を焦がしていても、原罪を背負う必要は無い。私はね……サイレンティウムと中層街に罪を持ち込む輩が許せない。悪に手を染め、自分だけが高らかに笑って一人勝ちを目論む奴を許すことは出来ない。だから」
私は此処に居る。指を鳴らして男の身柄をイスズに確保させたグローリアはダナンと同じ激情を瞳に宿し、乾いた血に濡れる手で機械腕を撫でた。