長くなった灰が煙草の先からポトリと落ち、銀の火皿の上で砕けて散った。
ディックの太い指が紙巻き煙草のフィルターに添えられ、鷹のように鋭い瞳がダナンを射抜く。真偽を見定める眼は僅かに白く濁っていたが、威圧感は修羅場を潜り抜けてきた強靭な意志を孕む強者のもの。年老いて尚他者を圧倒するディックはグラスに溜まった水を一気に飲み干し、溶けて小さくなった氷を舌の上で転がす。
「……お前」
「ディックだ。総帥の言葉を聞いていなかったのか? 小僧」
刺すような言葉と嗜めるような声色。ダナンの機械腕を一瞥したディックは何度か口をもごつかせ、指先で両目を揉む。
「……ディック、お前は爺さんを知っているのか?」
「それを知ってどうするつもだ」
「特に何も。ただ」
「ただ?」
「……あの人にも、男の知り合いが居たんだなって。そう思っただけだ」
「……」
グラスに満たされたバーボンを一口呷り、喉を焼くアルコールに呻いたダナンは煙草を口に咥え、火を着ける。紫煙がゆらりと火口から上がり、淡いランプの下で踊って輪を描く。
育ての親である老人についてダナンは何も知らない。己の過去を一切口にせず、路地裏でダナンを拾って育てた老人は何時も煙草を口に咥え、紫煙を燻らせていた。決まった時間にグラス一杯分の酒を飲み、下層街では珍しい紙媒体の文庫本を読む姿は何処か知的に見え、それとは正反対の軽口を話す老人だった。
老人がいたからダナンは生きていられる。銃の取り扱い方から遺跡での生存方法、下層街での身の振り方、生き抜く為の知識……。名も知らぬ老人はダナンの育ての親であり、名をくれた恩人だ。その人を知るディックに聞きたい事が山ほどあったが、彼の発する雰囲気に口を噤んだダナンは口元を機械腕の鋼の掌で隠し逡巡する。
「小僧」
「ダナンだ」
「貴様など小僧で十分だ。名を語るにはそれに相応しい生を辿れ。名前というのは単語以上に深い意味がある。小僧、貴様が云う爺さん……老人はな、それをよく話していた」
「爺さんが?」
「そうだ」
ダナンのドス黒い瞳がディックを捉えた。
「……貴様にとってのヴェルギリウスとは俺のことなのだろうか」
「何を」
「小僧、貴様にとってのベアトリーチェは何処に居る。アケロン川の漕ぎ手であるカロンは何だ? 叡智を司り、天への道を指し示す賢人は誰になる? 小僧……貴様は次のダンテに成り得る器なのか? 話せ……小僧」
ディックが何を言っているのか分からない。彼が口にした名称が何であるのか、どういった意味を持つのかまるで理解出来ないと頭を振ったダナンは酒をもう一口呷り「俺は俺だ。それ以外の……何者でもない」と苦し紛れに呟いた。
「そうだ、所詮貴様は世にのさばる個にしか過ぎない。個であるが故に我が在り、罪を成して悪を背負う。希望など在る筈がないと嘆き、絶望の縁に立って奈落を見据える眼だけを持つ罪悪の個我。貴様は貴様だ、他の誰かに成れる筈がない」
「……」
「追い求めるな、追い続けるな、視線を外せ。山は決して高くなく、楽園への道程は常に地獄から始まる。地獄を歩み、煉獄を彷徨い、星を追い続けた末に人はようやく光を掴み、自ずと自分の道を見定める。小僧……俺が貴様のヴェルギリウスになってやる。人には勝手に言わせておけ、貴様は……自分の道を進むがいい。ダナンとしてな」
スツールから腰を上げ、ダナンへ一冊の擦り切れた文庫本を手渡したディックは「ではグローリア総帥、私は此処で失礼します。後は治安維持兵が違法プラントを破壊する手筈です」ハットを被り、コートを肩に羽織る。
「あぁ、ありがとうディック統括部長。だが少し待って欲しい」
「なんでしょう」
「君に話したいことがあるんだ。下層送りの名簿と上昇者についてなんだけど」
「それは私の管轄ではありません。法務部と管理部へ依頼するべき事だと存じ上げますが」
「君がそう言うと思って既に話は通している。あとは君のサインだけさ」
「……拝見しましょう。名簿を携帯端末へ送って下さい」
笑顔を浮かべながら携帯端末を操作するグローリアと溜息を吐くディック。男の眼が次から次に送られてくるデータの羅列を読み解き、途中一瞬だけ止まるとダナンを一瞥し、また動く。その様はさながら精密機械……スキャナーを思わせるものだった。
「……正気と問うのは野暮な質問でしょうな」
「そうだね」
「実績に関しては過去十年の探索結果、依頼達成率を総合的に鑑みて合格としましょう。ですが、一度に三人となれば……他の幹部を説得する時間が必要です。グローリア総帥、何故この者達を中層街へ?」
「新しい秩序と社会の為かな」
「……上層街が黙っていませんよ」
「ディック統括部長、私は常々思っていたんだ。不変とは甘美な毒であり、慢性的な神経麻痺だとね。それに、中層街も中々キナ臭い連中が活発になっているだろう? だから殺しに慣れた……猟犬を雇う必要がある。違うかい?」
「……貴男の飼い犬ですか?」
「違うよ……友人さ」
いいでしょう。そう呟いたディックは携帯端末をポケットへ押し込み肩を竦めた。
「検討しておきましょう。答えは三日以内に送らせて頂きます」
「ありがとう、ディック」
スーツの襟を正し、バーの扉を開けて部屋を後にしたディックへグローリアは手を振るう。そして、視線をそのままダナンへ向けた。
「ダナン? どうしたんだい?」
「……この本は」
「本? その文庫本がどうかした?」
「……昔、爺さんがよく読んでいた本だ」
「君のお爺さんが? 少し見せてくれよ」
文庫本のタイトルは『神曲』。ダンテ・アリギエーリのが記した古典叙事詩だった。
「神曲か、如何にもディックが好きそうな本だけど……君のお爺さんも好きだったのかい?ダナン」
「好きだったというか……爺さんはよくこの本を読んでいた。それかまた別の本か。別にアイツ……ディックが爺さんと同じ本を読んでいることに疑問は無い。誰だって字が読めたら本くらい読む。懐かしいと思っただけだ」
本の頁を捲り、所々液体が滲んだ紙を撫でたダナンはふと赤線が引かれている文を見つけ、手を止める。其処には『この門を潜る者、一切の希望を捨てよ』と書かれていた。
「これは」
「それは地獄の門に関する記述だね。私は神曲よりもファウストかツァラトゥストラはかく語りきの方が好きなんだけど、それがどうかしたのかい?」
「……」
地獄の門にダナンは遺跡へ続くゲートを連想する。異形なる外生物や危険極まりない環境を強いられる遺跡は正に地獄であり、遺跡の上に存在する下層街は辺獄と云っても過言ではない。ならば下層街の上……中層街から上層外へ続くゲートは楽園へ至る道、煉獄とでも云えようか。
「さ、私の用事も終わったことだし戻ろうかダナン」
あぁ……。そう言って、本を渡したまま立ち上がろうとしたダナンの脳が身を貫く危機を察知し、グローリアを抱えて地面に雪崩れ込む。その瞬間、バーの棚に並んでいた酒瓶とランプが耳をつんざく銃撃音と共に弾けた。
目を白黒とさせるグローリアとは対照的にすぐさま機械腕の超振動ブレードを展開し、ショットガンを抜いたダナンの目に黒鉄の強化外骨格を纏った死が立ち塞がる。チェーンガンを唸らせ、腕装甲に仕込まれたパイルバンカーを振り上げた死の権化……上層街の始末屋は真紅の単眼をギョロギョロと動かし。
「対象を確認。排除行動を開始する」
と、背部ブースターを吹かしダナンへ突進するのだった。