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種子 下

「ダナンをどう見るか……分かりきった質問をするものですね、グローリア総帥ともあろう御方が。端的に言いましょう、奴は獣です。それも血に染まっていることさえも分からない薄汚い駄獣。中層街に似つかわしくは無い」


 握ったグラスの氷が溶け、鋭い音を発すると罅割れる。短くなったシガーを灰皿へ押し付け、指輪型情報端末を弄ったディックはグローリアを睨む。


 人を殺すことに疑問を抱かず、罪を抱えながら罰から目を背ける。下層街の生き方に染まってしまったと言えばそれまでだが、中層街で生きるならばそうはいかない。罪を犯せば罰を受け、法という無形の暴力と対面せざるを得なくなるのだから。


 「獣を御する首輪をカメリアに渡すのならば、手綱を誰に握らせるのか。いや、首輪と手綱をどれくらい用意するのかにもよりますが、たった一つの脆弱な拘束具では狂気を孕んだ獣を御することはできません。総帥、もしもの時を考えておいた方がいいかと……貴男の為にも」


 「私のことを心配してくれるのかい? 優しいね、君は」


 「優しさでも甘さでもありませんよ。現体制の維持と管理……それが私の仕事ですので」


 ウィスキーを呷り、氷を噛み砕いたディックは燃え盛るビルへ視線を移し、一人、また一人とビルの窓から飛び降りる影を一瞥する。


 「ディック」


 「……」


 「君の言っていることは正しい。間違っていることを私に話す筈がないからね。けど、ダナンの上昇になぜ君は賛成したんだ? 君の言葉を聞く限り否定的な意見が目立つが」


 「勿論、私は下層民を中層街に迎え入れるのは反対です。しかし、それは獣に限っての話。獣以上、人間未満の存在を認めていないワケではない。昔……狼に育てられた少女の逸話がありましたね、ダナンの件はそれと同じなのです」


 獣という要素を色濃く映し、牙を剥きながら唸るだけの存在ならば餌と鞭で調教できよう。だが、モノを考える術を得た獣は果たして動物と言えるのだろうか? 人の形をした獣と断じ、徹底した管理で再教育を施せば人間たり得るのだろうか?


 答えは否、全く以て勘違い甚だしい。乳飲み子が駄獣のように泣き叫び、少年少女が朧気な善悪観念で罪を犯す様を獣と言うのならば、我々は初めから人間ではなく、人の皮を被った獣として在るべきだ。故に、一概にダナンを獣と断じることはできず、人として認めることもできない。全ては人間性を考慮するべきなのだから。


 「人は一人では生きられません。他人がいても生き辛く、孤独であればある程自我の崩壊を招く厄介な生物でもあります。幸福も不幸も、個が群れに属するが故に発生する因果の一つ。何も信じられず、見えず、涙を流す人間は幸福でしょうね……個が持つ希望を群れに期待しているのですから」


 「冷たい事を言うね」


 「冷たいのではありません。これは真実でも虚偽でもない……事実の一端です。一人は皆の為に、皆は一人の為に……そんな綺麗な嘘に惑わされ、社会という群れに属している。それが不幸の始まりであることも知らずに、自己責任という闇へ目を向けず。獣が群れを成して生きるのならば、人間も獣である以上変わりはない。故に、孤独を知りながら社会に属している者こそが人として存在できる。私はそう思いますね」


 結局、その考えに依れば己もまた獣に過ぎないのか。口角を僅かに上げ、ニヒリスティックな笑みを浮かべたディックはテーブルを指先で叩く。


 「天国への道は地獄から始まる」


 「……」


 「君はこの一文をよく知っている筈だ。地獄を彷徨い、煉獄を渡り歩き、その最奥で堕ちたルシフェルを見たダンテはやがて天国へ至り、ベアトリーチェと共に神の慈悲を知る。綺麗な話だと思わないかい?」


 「神曲とは物語の口を借りた神学論です。個人の情よりも、社会体制に生かされているとも言えますね」


 「そうだね、個の存在論を語るならファウストを引用するべきだ。メフィストフェレスの誘いによって罪を犯し、愛を奪われ、全てを失いながら最後にはグレートヒェンの祈りによって救われる。死してこそ輝き、その瞬間を美しいと悟ったファウストと、永遠の淑女と神を知るダンテ。ディック、君はどっちの古典が好きなのかな?」


 「神曲でしょう。神の存在論を語り、地獄という罪を書き、煉獄という罰を人と法に当て嵌める。これほど発達した文学は存在しません」


 「神を信じたことは?」


 「……ならば世界はこんなにも残酷になっていないかと」


 「ディック、君が何故神曲を好み、それを愛読するに至ったのか。素人考えで悪いが、君はヴェルギリウスに成ろうとしたんじゃないのかい?」

 ディックの瞳孔が僅かに開き、眉がピクリと反応する。


 「ダンテ……迷いを抱えながらも暗き森に迷い込み、地獄を旅することとなった男。そして彼の旅路をヴェルギリウスに頼んだベアトリーチェ……。ダナンは下層街という辺獄を生き、遺跡と呼ばれる地獄を歩んだ人間だ。彼の生をダンテになぞらえると、傍に立っている筈のヴェルギリウスの姿は何処にも無く、ベアトリーチェさえ居なかった」


 ランプの淡い光が明滅し、グローリアの金糸のような髪が煌めきを残す。椅子から立ち上がった青年はゆっくりとディックの横に歩み寄り、肩に手を添える。


 「君が上昇に反対しながらも、賛成に回った理由がよく分かった。ダンテ……地獄を渡りながら、最後には神の慈愛を知る人間を導きたい。その為に自身を架空の存在……ヴェルギリウスに見立て、我が子をベアトリーチェとして与える。ディック、それは私利私欲によるものかい? それとも赦されたいが故に? はたまた渇望を満たしたいから? 答えてくれよ、ディック」


 心臓が狂ったように跳ね回り、薄っすらと脂汗が滲み出る。ビルの窓から轟々とした炎が噴き出し、飛び降りようとしていた者を飲み込んだ。


 「……そうですね、私は彼のヴェルギリウスに成りたいと思った」


 「……」


 「罪悪に濡れた者を導き、獣であるが故に人として生かす。愛を知らぬならばそれでいい。夢を見ることが赦されぬならば、瞼を閉じたまま眠っているがいい。頭を押さえつけ、倒れたまま立ち上がれぬのなら地面を舐めていればいい。しかし……もしダナンが奴の息子であるのならば、体制と社会に頭を垂れたままではいられない。あの反骨心を抑え込むことも、全てをぶち壊す意思は止めることもできない」


 シガーを咥え、火を着けたディックは紫煙を吐き出すと轟々とした激情を瞳に宿し、


 「だからこそ私はサイレンティウム総括部長としてダナンを管理する必要がある。ヴェルギリウスという仮面を被り、権威のオールを漕ぎながら権力の小舟を進ませねばならないのです。過去の私ができなかった事を、今の私がやるべきだ。グローリア総帥、私の意思は私利私欲でも渇望でもなんでもない。サイレンティウム総括部長の職務としてある。違いますか?」


 「そうか、ならダナンの各種諸々の手続きは君に任せよう」


 「……」


 「そう意外そうな顔をするなよディック。君が多忙であることも知っているし、こうして私と会う為に予定をキャンセルしたことも簡単に想像がつく。これからもっと忙しくなるだろうけど、それでもいいかい?」


 「グローリア総帥のご命令であれば」


 「なら頼んだよディック。うん、有意義な話ができた。これで娘を下層街に迎えに行くことができるよ。ありがとう」


 ディックの肩を何度か叩き、エレベーターへ向かったグローリアは最後に「君の意を汲むか否かはダナン次第だ。それを忘れないでくれよ?」と朗らかに笑い、バー・ラウンジを去る。


 「……」汗を拭い、一気にウィスキーを飲み干したディックは「ダナン……これからだ」と呟き、沈下し始めたビルを眺めるのだった。


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