細く骨ばった指が宙を彷徨い、皺枯れた肌で生温い空気を撫でる。
一、二、三……決まったリズムで指を動かし、ホロ投影された鍵盤を叩いた老人はピンと張った筋に顔を顰め、己の無様さを鼻で笑う。
音楽に良い思い出など一つも無い。雨が降る大通りで流れていた『月の光』は初恋の終わりを告げる悲曲で、開戦時に嫌という程耳にした『英雄』は、最終的に人類を穴蔵へ追い込んだ行進曲の一つ。音楽というモノは人の精神を狂わせ、現実と虚構を織り交ぜる作用を持つ麻薬の類に違いない。
しかし、こうして暇を見つけては鍵盤を叩く練習をするのは、音楽に対しての気持ちと行動が掛け離れているから。確かに己は音楽に対して好印象を抱いておらず、逆に忌々しいとさえ感じる瞬間があった。指先一つ運び方を間違えれば音が狂い、調律を欠かせば音程もまた狂う繊細極まる遊び……否、生物の飼育とでも言うべきか。
鍵盤の上に指を滑らせ、相方の音律に合わせて鍵盤を弾く。楽譜という道のりがあるにも関わらず自由奔放な演奏をバーに響かせ、ドラムを気持ちよさそうに叩く男の姿が脳裏を過ぎる。ギターをかき鳴らす長髪の女が男へ熱い視線を向け、己にはまた別のサックス女の視線が突き刺さるカルテット……。過去の記憶を掘り起こしながらホロの鍵盤を叩き、『ワルツ・フォー・デビイ』の楽譜をなぞった老人は深い溜息を吐く。
「先生」
「……」
「ネームレス先生」
老人……ネームレスの白濁色の瞳が銀の少女を射抜き、記憶に縋る己を鼻で笑う。
「カナンか、イブは……あぁ言わずとも分かる。何だ? 貴様が一人で此処に来るとは珍しい。私の事が苦手だと思っていたが」
「ううん、一年も顔を合わせていれば慣れるよ。先生の皮肉にも」
「そうか」
「そうだよ」
ノートとテキストを開いたカナンは机に向かい、ペンを走らせる。彼女の解く問題はネームレスからの課題である。
「先生は」
「……」
「ピアノを弾けるの?」
「人に教えられる程の腕ではない」
「けどさっきの指捌きは慣れた人の手だった。先生は昔」
「私の過去を知りたいのか? 面白くも無い老人の昔話を聞きたいなど……貴様のような若者にとって、無駄な時間に過ぎない。言葉を話すよりもペンを走らせるがいい。無意味な事に時間を割くな……カナン」
ぼんやりとモニターを眺め、背中に繋がった動力パイプから蒸気を噴き出したネームレスは皮肉たっぷりな笑みを浮かべ、ホロの鍵盤を指先で消す。
カルテットの記憶は二百余年前のモノで、三人のメンバーは既にこの世を去っていた。一人は戦場で散り、もう一人は反戦運動に参加したことで処刑され、最後の一人はネームレスと同じ研究職であるにも関わらず自ら命を断った。残った男は一人醜く齢を取り、老人の姿となって屍の生きている。無様で醜悪な生の堕ち水を飲み下しながら。
「……先生」
「……」
「ピアノ、もう弾かないの?」
「弾く価値も無い。カナン、私にとって音楽は麻薬なのだ。肉体的な感覚麻痺を引き起こすものでも、精神の高揚を得られるものでもない……過去を掘り起こすだけの合成麻薬。貴様の思う綺麗な感情など何処にも無い。私がピアノを通して振り返る情景は……後悔の反復作業に過ぎん」
クツクツと自嘲するかのように口角を歪め、安楽椅子に背中を埋めたネームレスをカナンの銀の瞳が射抜く。
「あの、迷惑じゃなければ」
「……」
「ピアノ、教えて?」
「言っただろう? 人に教えられる腕ではない。それに私の手を見てみろ……この骨ばった指で鍵盤を弾けると思うか? 貴様が思う程軽くはないのだ、あの白い板は」
「先生が弾けなくても私なら弾けるよ! ほら、見てよこの手! 先生の指よりも太いでしょ?」
「……馬鹿者め、指の話は揶揄だ。しかし……何故そうもピアノを習いたい。貴様にはイブのサポートがあるだろうに」
「サポートだからこそかな……イブは私よりも数倍忙しいし、ルミナの実証実験にも毎日のように参加してる。少しでも癒やしたいの、身体じゃなくて心を」
「……」
もう一度深い溜息を吐いたネームレスはホロの鍵盤をカナンの目の前に映し出し「ピアノとは脳の分割化……両の手を別の生物だと思うことから始まる」肘掛けを指先で叩く。
「それってどういう」
「学ぶよりも慣れろ。身体に覚え込ませる他術は無いと思え。少なくとも私はそう考えている。先に言っておくが……甘えは許さんぞ? 泣き言を吐いた瞬間に私は指導を止める。無駄な時間だったと評してな」
「う、うん、分かった」
八本の機械義肢が鞭とテキストを持ち、メトロノームの針でリズムを刻む。ゆっくりと指先を鍵盤に乗せたカナンは興奮で胸を高鳴らせ、少しだけ震える人差し指で鍵盤を弾く。
「―――ッ!!」鞭がしなると同時にカナンの手の甲を打ち、白い肌に赤い線を走らせる。ネームレスの瞳に轟々とした情熱が燃え上がり「誰が勝手に弾けと言った。貴様にはまだ鍵盤に触れる資格は無い」と、冷たくも荒い声が部屋に響いた。
「学習……私が貴様に課した課題を勝手に解くのには何も言わん。それは貴様とイブ……そしてカミシロとその仲間達の計画の為故に。だが、ピアノに関しては別だ。このレッスンは私と貴様の一対一による指導。生徒が無許可で鍵盤に触れることは許さん」
「け、けど、習うよりも慣れろって」
「貴様に楽譜が読めるのか? どの鍵盤がどんな音を奏で、三本のペダルの名称を言えるのか? ラウドペダル、ソフトペダル、ソステヌートペダル・マフラーペダル。黒鍵の意味は? 前提知識を頭に入れ、楽譜の読み方を知れ。私のレッスンを甘く考えるな、ガール」
「ガ、ガール?」
「古くはボゥイ、バンドボーイ、或いはローディーなどと呼ばれていたが、今の時代……音楽という文化が衰退した現代においては忘れ去られた言葉だ。貴様は男ではなく女、それも若い少女故にガール。何も可笑しいことはない」
「へぇ……」
饒舌に語るネームレスへ恐れと憧れが入り混じった視線を向けたカナンは、彼の指し示すテキストに目を向ける。
無趣味で堅物、全てを俯瞰しながら皮肉を語るだけの老人だと思っていた。音楽を合成麻薬の一種だと話し、忌々しいとまで言ったのに。
おそらく……これは憶測だが、ネームレスにとって音楽は遠ざけたい記憶の一つだった。トラウマとも呼べる記憶を無遠慮に掘り返し、土足で心を抉る鋭利な刃。それが彼にとっての音楽であり、忌々しい負の遺産。
だが、その遺産には手放せない思い出があったのもまた確か。カルテットを組みながら楽器を演奏した記憶、酒を飲みながらこれからについて友人と語り合った蒼い炎、恋慕を募らせながら雨に濡れる苦み……。ネームレスの傍らには音楽が何時もひっそりと佇み、それはまるで恋人のように彼の傷口を広げては塞ぎ、塞いでは開かせていた。
ネームレスの指導を受けながら、彼の情熱に触れたカナンは否が応でもその想いに触れ、血の通った言葉に心を震わせる。音は心に触れることで脳を活性化させるに至り、凡人を文豪や英傑にさせることを。一つの楽器では成し得ぬことを、二つの楽器が奏でる音を組み合わせることで成し得ることを。少女は頭ではなく感覚を以て理解した。
そして、カナンとは別にネームレスもまた興奮していたのだ。久しく忘れていた音楽に対する情熱を取り戻す事に、スポンジの如く己の知識を吸収する少女に。
「先生」
「何だ」
「今回の勉強……ううん、レッスンが終わっても、また教えてくれる?」
「……励むならば構わん」
「ありがとう! 先生!」
その日、二人は遅くまでレッスンに励むのだった。