鍵盤を叩く指が僅かに震え、黒鍵に触れる。
突拍子もない音がリズムに乗っていたギターの音に掻き消され、ドラムが奏でる振動の奥へ飲み込まれる。薄暗く、淡いランプが灯るジャズ・バーには多くの人々が音楽に耳を傾け、それを肴にして酒を呷っていた。
カルテットのメンバーは青年の手元が狂ったことに気付いているのだろうか?
気持ちよくギターを掻き鳴らし、ドラムを叩きながら汗を流す二人の男女は違和感を感じ取ったのだろうか?
間違いなく気付いている。気付いているが故に楽器の音を上げ、彼のミスをフォローしたのだ。らしくないと音で語り掛け、どうしたと言わんばかりに弦を弾く女は、スティックを振る青年へ視線を向ける。
まだだ、まだやれる。此処で終わりだなんて馬鹿げたことを言わないでくれ。ピアニストの指が活気を取り戻し、目に情熱の炎を宿らせる。震えていた指が針金を通したようにピンと張り『ワルツ・フォー・デビイ』の最後の音符を弾く。
流れる汗と脳を突き抜けるような達成感。最後のサービスミュージックを演奏した青年は、心配そうに己の顔を見つめるカルテットを見渡し、疲労を隠すような苦笑を浮かべた。
「リチャード」
「……」
「指、見せなさい」
「駄目だ」
「貴男ね、私達が気付いていないとでも思ったの? 子供みたいに隠さないで」
「まぁまぁそう怒んなって、ソキウス。リチャードだって言いたくないことの一つや二つあるだろ? そう詰め寄るような事でもないし、落ち着けよ。な?」
「ダナン、貴男も貴男よ。カルテットのドラム担当ならちゃんとメンバーの調子を」
「はいはい、熱くならないの。リチャード、指を見せてくれる? 応急処置くらいはできると思うから、ほら」
「マリアン! 貴女も……ハァ、どうしてどいつもコイツもお優しい人ばかりなんでしょうね! 診たら教えなさいよ、これからの事もあるんだから!」
「オッケー。じゃぁリチャード、勝手にごめんね」
「……」
灰色の髪を持ち、病的なまでに白い肌を持つ青年……リチャード・ロウは柔らかい微笑みを浮かべるマリアンへ無言で掌を差し出す。火照った頬を隠す為にそっぽを向きながら。
「えっと……痛いところはある?」
「……指の先が痺れるだけだ。マリアン、君に診て貰う必要は無い。原因は恐らく首だろうな」
「へぇ、なに? 昨日も大学で泊まりの実験?」
痛みは指先に出る。だが、その根はもっと奥にある。
「分かってくれるなら話しが早い。これは全て私の責任だ、君達とは違うのだよ……親の金で学業に勤しむ人間と、奨学金に頭を悩ませながら通う人間。そうだろう? なぁ、ソキウス、ダナン……そしてマリアン」
カァっと怒りに震えるソキウスがリチャードの胸倉を掴み上げ、慌てた様子のダナンが必死に宥め引き剥がす。草臥れたネクタイを解き、首元が汗で黄ばんだシャツのボタンを外した青年は、古びた楽譜を指で撫でると「単なる皮肉だ、怒る意味も無いだろうに」苦笑する。
「貴男ね、少しは人の気持ちを」
「気持ち? お笑いだな、君達は趣味と自己満足の為に音楽を奏でている。だが、私は一重に生きる為にピアノを弾いているのだよ。何故カルテットを組んだのか……それは腕の良い人間を利用する為で、演奏料に色が付くから。何も可笑しなことはあるまいに。なぁ、ソキウス」
何時だって、己の生は苦しみに塗れていた。神は乗り越えられる試練のみを人に与え、その慈愛を以て救済へ導くとされる。
馬鹿を言うな、そんな都合の良い話しなどある筈が無い。忌々しいと言った様子で唇を噛み、ピアノの蓋を閉じたリチャードはドス黒い瞳を仲間へ向ける。いや、仲間だと思っているのは己だけであり、彼等にとって己は自分達の芸術を完成させるピースに過ぎない。欠けても補充されるピースに一々気を配る必要は無い筈だ。
「……帰らせてもらう。金は何時もの口座に振り込んでおいてくれ」
「リチャード、待って」
「……気分を害したから謝れと? 頭を垂れて膝を折り、額を地面に擦り付ければいいのか? マリアン、お優しい君のことだ。ソキウスに謝れと」
「違うってば、次の公演日についてなんだけど? あのね、貴男が何と言おうとリチャードは私達にとって大切なカルテット・メンバーなの。少しは人の話しを聞くことを覚えたら? ね、ダナン」
顎にソキウスの肘鉄を喰らい、視界を眩ませたダナンの瞳がリチャードを見据える。
「なぁリチャード」
「……」
「首、大丈夫なのか?」
「問題無いと言った筈だ。神経系の疾患だろうが……君達が心配する程のものではない」
「病院は?」
「……」
「まぁ行ってないよなぁ……。よし、リチャードお前これから暇か? 暇だよな? 送ってくよ、バイクの後ろに乗っけてさ」
「不要だ」
「不要、無意味、無駄、要らん……ごちゃごちゃうるせぇなお前は! 悪いな皆、今日は先に抜けるぜ? 親に迎えに来て貰いな」
「ちょ、ちょっと! 次の楽曲の打ち合わせとか練習の段取りとかは⁉」
「そこらへんは上手いこと纏めてくれ! 頼んだぜ、ソキウス!」
「待ちなさいこの馬鹿!」
やれやれと肩を竦め、バイクのキーを投げて寄越したマリアンへダナンはウィンクをする。
「手を離せ」
「離したらお前どうするよ」
「寄宿舎に戻って」
「バーカ、大学の課題提出までまだ時間があるだろ? 遊ぼうぜ、少しさ」
「遊ぶ金など」
「無いなら無いなりに工夫するだけだろ? 頭堅いな、お前は」
ジャズバーを飛び出し、バイクのハンドルに引っ掛かっていたヘルメットをリチャードへ投げ渡したダナンはキーを差し込み、勢いよく回す。夜闇にエンジン音が轟き、星空に浮かぶ月が揺れたように感じられた。
「ほら、早く乗れよ」
「……」
「遠慮すんなって、金は取らねぇよ。同じ大学のよしみだ。俺もお前と色々話したかったしな。どうする? リチャード」
深い溜息を吐きながらメットを被り、バイザーを閉じる。指を弾き「そうこなくっちゃ!」とダナンが笑う。
「お前さ」
「……あぁ」
「マリアンのこと、好きなのか?」
何も無いところで躓き、驚いた様子でダナンのニヤケ面を睨んだリチャードは、心臓をバクバクと脈動させる。
「な、何いきなり。マリアンは確かに魅力的で、美しい女性だが……彼女に私は釣り合わない。それに……マリアンは私のことを好いてはいない。それだけは」
「分かるって? 大学一の秀才様が臆病風吹かせちゃってまぁ。馬鹿だなー、本当にお前って奴はアホの極みだぜ?」
「お前に何が」
バイクのタイヤが回り、排気口から黒煙が吹き上がる。改造されたバイクは夜の街に轟音を響かせ、ポツポツと並ぶ街灯の隙間を縫うように走り、アスファルトでゴムを削った。
「分かるよ、お前の反応を見れば誰だって気付くさ。分からねぇのは当の本人とマリアンだけだろうな。いやね、俺もアイツのことは好きだな」
グツグツと沸き上がる嫉妬の炎がリチャードの腹を黒に染め、ダナンの腰に回した腕に力が入る。
「痛ぇよ馬鹿」
「……」
「ったく……俺はな、お前の事も好きなんだぜ? リチャード」
「同性愛者の気は無い」
「俺だって無ぇよ⁉ まぁアレだ、俺は今のカルテットを失いたくないんだよ。お前の言う利害の一致だとか、商業的な関係じゃなくて……これからもたまに集まって、楽器を弾いて、話しができる関係で居たいと思ってるんだ」
「何を馬鹿げたことを」
「馬鹿げてなんかいない。他の連中が何でもない、どうでもいいと言う日常にかけがえの無い幸福って奴はあると思うんだよ。淡くても、朧気でも、光る星……ルミナス。良い名前じゃないか?」
「……ロマンチストだな、お前は」
ロマンチストで結構! そう言ったダナンは、バイクを走らせる。