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第五十一話 子の心親知らず

 ——六月某日「白鳥屋」にて。


 ある男性従業員が色々と人に聞き回りながら、紙の端切れに何かを書いていた。

 百合子も同じく自分用に使う仕事の備品を確認している。

 客があまり多くない時期だが、七月になるとお中元や暑中見舞いなどの代筆で忙しくなる。

 それらで送る夏柄の便箋も必要にもなるだろう。

 その為の下準備を、一部の従業員が行なっている。


(洋墨はまだもう少しあるし……そういえば先日、新しい夏柄の便箋が入荷したってお知らせ来てたから、それも引き取りに行きたいなぁ)


 間もなくして、従業員が備品の聞き込みを終えた後……。


「じゃあ、百合子ちゃん。悪いけど、この注文書と一緒にこれもお願いするよ」

「はい、こちらの分もですね。わかりました」


 百合子は小さめの紙を受け取った後、店のお使いとして外へ出る準備をしていた。

 お使いに出かけるのは、基本男女問わず若い従業員が当番として行う。

 百合子も例外ではなく年下の部類になる。

 本来なら面倒だとあまり引き受けない若者が多いが、百合子はこの日を楽しみにしている。

 寧ろ、こういう日の方が彼女にとって気晴らしになるからだ。


(よし、頼まれた品の覚え書きを入れて財布の入った巾着を持ったし、大丈夫!)


「では、お使いに行ってまいりますね!」

「はーい、お気をつけて」

「いってらっしゃいませ」


 他の従業員に外出の旨を伝え、店の玄関から外へ出ようとするも……。


「あっ、百合子さんや」

「あら、叔父様? どうかしました?」


 店主の茂からあるものを持って声を掛けられる。

 百合子がちょうど出掛ける手前だった為、慌てて出てきている。


「これも持っていきなさい」

「え?」


 手渡らせそうにしたものは、彼女が私用でも使っている赤い番傘だった。


「傘、ですか?」


 百合子は不思議そうにキョトンとしてそれを見る。

 六月の瑞穂国は、例年であれば梅雨の時期。

 しかし、空を見上げてみると雲の量が多少あるものの、晴れ間の方が見えている。

 この様子だと、雨が降ってくる気配は一切見えないだろう。


「ほら、百合子さん。もう梅雨の時期に入るし傘を持っていかないと」

「えぇ~またまたぁ~! 大袈裟ですよ。今のところ雲は少し多くありますけど、この状態ならまだ雨は降らないと思いますよ」

「いやいや、それでも万が一というのが……」


 空の有様を見て百合子は全く心配ないという。

 だが、茂は持っていくようにと無理矢理ではあるが傘を押し付ける。

 お使いとはいえ、買ってきてもらう物は代筆でいつも使っている紙商品だ。

 洋紙だけでなく和紙も買う為、風呂敷に包んで帰るとしても雨に濡れたら台無しになってしまう。


「大丈夫ですって! すぐに店へ戻りますから! では、行ってまいりまーす!」

「ちょっと、百合子さんってば! あぁ~……もう!」


 それでも断り、彼女は平気そうな顔をしていそいそと逃げ切るようにお使いへ向かう。

 まるで、無邪気な子供のような仕草だ。

 どうしても傘を持たせたかった茂は、彼女を再度引き止めようしたものの止めることができなかった。


「はぁ、やれやれ……」

「あらあら、行ってしまいましたの……」


 奥方も二人の会話が聞こえていたのか、チラッと溜息をつく店主の方を見ていた。

 もちろん、茂と同様に百合子が傘を持っていかなかったことも不安になっている。


「あぁ……そうだ。何度も傘を持って行けと押したんだが……言うこと聞かないもんで」

「あらまぁ」

「雨が降らないといいのだが」


 年頃の娘とはいえ茂の心配は、空の雲行きとともにまだ拭えないものだった。

 奥方も、空模様を見る限りでは茂と同じ思いをしている。


「どうでしょうねぇ? ただ、急に土砂降りなんてこともありますから」


 しかし、茂はうぅむと唸ることしか出来なかった。

 奥方はそれでも更に後ろから見守っていくことをアドバイスを交わす。


「もう行ってしまわれた以上は難しい話ので、ひとまず戻りましょう。貴方もお仕事がまだ残ってますので。またその時になったら……」


(無事に帰って来れるといいんだが……大丈夫かのう)


 難しい表情から呆れ顔になった茂は、奥方に宥められてしまった。

 そうなった以上は、何も出来ないと悟ったのだろう。

 半分諦めもあるが、とりあえず彼女が早めに帰ってくることを祈り、様子を見ながら店の中へ戻ることにしたのである。



 ——それに対し、百合子は……。


 雨が降らないうちと思いつつ、心の中で小言を呟く。


(もう、叔父様は心配しすぎ……。雨が降らないうちに切り上げて帰れば良いだけだもん! だから、急いで済ませようっと)


 百合子は時折、茂からの子供扱いに困っていた。

 十八になって年齢的にはもう大人だから一人で出来ると思っている。

 むしろ、彼女にとっては過保護と思っている節もある。

 だが、それが親心子知らずなのだろう。

 薄ら模様の曇り空だろうと構いなく、午後でも雨は降らないと信じて目的の商業街へ駆け向かうのである。


 ——彼女の親から心配していた予想が、この後的中してしまうことも知らず……。

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