波のように押し寄せる後悔と眠気の中で、紗希は昇吾のぬくもりを感じていた。警察官がせわしなく行きかう中、マスコミが嗅ぎつける前に救急車へ乗り込む。
すると。紗希は瞬く間に一度、眠りに落ちていった。救急隊が乗り合わせた昇吾に問題がないことを説明すると同時、紗希がうわごとを漏らす。
「放して、やめて……」
「紗希!」
思わず昇吾が覆いかぶさるように紗希の両手を握りしめる。未だに彼女が総一郎とともにいた瞬間にとらわれているのかと思うと、昇吾は怒りのあまり我を忘れてしまいそうだった。
「紗希、もう大丈夫だ。病院に向かうだけだ」
「ごめんなさい。私……お父様から連絡を受けて、昇吾さんに聞こえてほしくないと願ってしまったの……」
「ああ、分かっている」
「眠ったから、連れていかれて。縛られて、私……」
ぐったりとした紗希の腕には、縄の跡が幾筋も残っていた。連れ去られるときにどんな仕打ちを受けたのだろう。青や紫の痣が体のあちこちに残り、一部は黄色く変色し始めていた。
「落ち着いて、座ってください」
冷静な救急隊員の声掛けに、歯を食いしばりながら昇吾は席に戻る。
「目を覚ました時。彼女さんをちゃんと抱きしめられるよう、少しでも休んでください」
「分かっています。分かっているんです……」
どうしようもない憤りを感じながらも、今の彼にできるのは、紗希の傍にいる、ただそれだけだった。
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紗希が目を覚ますと、そこはよく言えば清潔感のある、悪く言えば殺風景な室内だった。だが少なくとも、どこなのかは判断できる。自分の腕につながる点滴のラベルに、病院名がはっきりと書かれていたからだ。
さらにベッドサイドには昇吾が椅子に座り込み、紗希の手をずっと握りしめていた。
「……昇吾さん」
思わず声をかけると、昇吾がすぐさま目を覚ます。
「紗希、大丈夫か? 気分は悪くないか? 先生を呼ぼうか」
そう尋ねながらも、昇吾はどこかホッとしていた。
幸運にも救いだされた紗希が落ちた眠りは、ケガや病気とは無関係だった。
華崎和香の証言により、本来ならば重度の入眠障害を持つ人へ処方される医薬品を飲み物に混ぜ、蘇我俊樹を通じて飲ませていたことが分かっている。
均の見立てでは、和香は真琴により強い【絡繰り】の支配下にあったらしい。
しかし、原因が医薬品とはいえ、紗希が目覚めない可能性をおもうと不安でたまらなかった。
「大丈夫……あの、昇吾さん、総一郎様、は?」
「彼は警察に引き渡された。紗希をホテルへ連れ込んだこと、違法に薬物を入手したこと、他にも罪状がいくつかあるんだ」
「……真琴さんの、こと、聞いたかしら」
昇吾は首を横に振った。
「気にするな。今は自分の事だけ考えるんだ。紗希。実は時哉が、宮本時哉が全面的に協力してくれた。彼がここ最近の総一郎氏の動向や発言をまとめた資料を提供してくれたんだ」
「それでも、話をさせて」
紗希の目に涙が浮かぶ。ぎゅっ、と昇吾の手を握りしめて、呟くように言った。
彼女はゆっくりと話した。真琴が本当は総一郎の妻である優珠の子供であること。
本来ならば、宮本家の子として愛されて育つはずだったこと。
だが真琴は総一郎の子ではなく、優珠が一族の男によって孕まされた子で、それ故に蘇我家と宮本家の間に起きたスキャンダルに使われてしまったこと。
「総一郎様はこう言っていたんです。優珠にとっては彼女は子供だが、私にとっては彼女は
紗希は泣きじゃくる。真琴を憎らしく思った日もあったし、関わりたくないと心の底から願った日もあった。
だが、あんまりだった。総一郎のためにと彼女が動いたのは事実だったはずだ。
「総一郎様。いえ、総一郎氏が、彼が【死に戻り】の力を求めたのは……真琴さんのことを、なかったことにしたかったからなんです」
昇吾はその衝撃の強さに胸のうちがかきむしられるような痛みを覚えた。真琴のことを信じられなくなったとはいえ、彼女が大切な幼馴染であったことに間違いはない。
彼女を実の父親が存在をしようと目論み、数多の隠し子を作っただけでなく、紗希に手を出そうとしたなんて。
真琴は真実を知っているのだろうか。知ってしまった時、彼女はどうなってしまうのだろう。
想像すると身震いが止まらず、彼は紗希の頬を、唇を、続いて腕を、そして顔全体をなでた。
額に額を重ねて、まつ毛が触れ合いそうなほど近い距離で囁く。
「気にしないなんて言ってすまなかった……許してくれ」
「もちろんです。私だって……」
しかし昇吾は気が咎めるのだろう。しばらくそうして紗希を優しく撫でながら、じっと考え込むように黙っていた。
2人の間に少し気まずい沈黙が広がる。
何か話そうとしても、思いつく話題はどれも、気持ちを重くさせるものばかりだった。
「……ああ、そうだ。君が目を覚ましたら、先生を呼ぶように言われたんだ」
ふと思い出した様子で昇吾が口を開いた。紗希も納得して頷こうとしたが、体が動かない。
昇吾が立ち上がるのではないか、と思った瞬間。
「いかないで」
そう呟いた紗希の目元から、今までになく熱くて大粒の涙が、ボロボロと落ち始めた。猛烈な愛しさとどうしようもない怒りが昇吾の中を反復する。
理性を総動員させ、殴るのを控えた自分を昇吾は後悔した。総一郎の顔を、強かに打ち抜きたい気持ちでいっぱいになる。
だからこそ、怒りを抑えて囁いた。
「どこにもいかないよ、紗希」
紗希はホッとした様子で眠りに落ちるのだった。