2日後。紗希は退院する運びとなったが、すぐさま昇吾と2人の落ち着いた日々に戻るわけにはいかなかった。
直接的な被害者となった紗希はともかく、昇吾にはあまりにも多くの事後処理が待ち受けていたからだ。
昇吾から「迎えを頼んだから」と言われている。誰が迎えに来るかまで詳しく聞けばよかったと思いつつ、紗希はシャワーを浴び終えた状態でベッドに腰かけて待っていた。
ドアがノックされる。
「どなた?」
と、声をかけてすぐに「紗希!」という明るい声が飛び込んできた。目に涙を浮かべる親友の顔に、紗希は思わず立ち上がって駆け寄る。
「莉々果!」
「本当に良かった……」
2人は、お互いの背に手を回して無事を喜び合った。
「昇吾に頼まれたから、いろいろ持ってきたの。とりあえず着替えて」
莉々果は大きなバックパックを背中からおろすと、真新しいネイビーのワンピースや封を開けていない下着、メイク道具などを取り出す。
病院でレンタルしたパジャマから、彼女が持ってきてくれたネイビーのワンピースに着替えた時。やっと紗希は日常を取り戻せた気がした。
「ありがとう。ええと、しばらくは莉々果にお世話になるみたいだけど」
「気にしないで」
世話になった病院の看護師たちにお礼を言いながら、退院手続きを済ませたあと。莉々果の案内で、紗希は裏口にまわった。
すると、すぐさま一台の車が隣に回り込んでくる。一瞬、紗希は誘拐された時のことを思いだしたものの、運転手が均だと分かって大きく息をついた。
「ごめんね、紗希ちゃん。流石にヘリポートを使うわけにはいかなくって」
ジョークなのか本気なのか、真面目な顔で言う莉々果に思わず紗希は笑いそうになった。
「大丈夫よ」
車に乗り込むと、均は紗希の様子にホッとしたようだった。
「退院おめでとう、紗希さん」
「ありがとう」
「ところで、昇吾から一つだけ頼みごとをされているんだ」
紗希は身を乗り出す。昇吾が何を均に頼んでいったのか、聞きたくてたまらなかった。
彼とは昨日別れて以来、電話もメールもできていない。
「彼は何て?」
「できるだけ総一郎の話題に触れさせるな、以上」
均の言葉に、慌てて紗希はカバンにスマホを押し込む。
形の良い眉を吊り上げた莉々果が、紗希にちらりと視線をくれた。
「気にするなっていう方が無理よね」
「でも……昇吾さんの気持ちも分かるから」
紗希はスマホのディスプレイに視線を落とす。
『血筋への執着がきっかけか、宮本総一郎、非業な行いの数々』
『宮本通信会社は総一郎氏を解任へ』
SNSは、宮本通信会社の特大スキャンダルで埋め尽くされている。特に総一郎がどのような罪を犯したのか、詳細な情報をもとに連日報道が続いていた。
さらに青木産業が、宮本通信会社と今後も提携を続けるのに難色を示しているのも、投資家たちに大きな影響を与えている。
通信サービス事業のトップ企業である以上、そう簡単に倒産はしないだろうが、今後は分からない。
同時期に蘇我不動産が犯した不正会計についてのニュースも出たようだが、総一郎の件に比べればあっという間に関心は薄れている。不動産や経済専門のニュースサイトで触れられている程度だ。
それが幸いだと、今の紗希は思うしかない。勤めている社員たちの今後については、青木産業の不動産部門が預かると聞いている。
最終的にはさまざまな面から判断が下されるだろうが、彼らに咎はないと思いたい。
少なくとも退院したばかりの紗希に、今すぐにできることは何もなかった。
「紗希ちゃん。私が知ってる範囲で、今起きていることを共有するわね。気になったら、何度でも聞いて」
「莉々果。うん……お願い」
莉々果は頷いて、一つずつ説明をしはじめた。
紗希が連れ去られたあの日。
昇吾が紗希に渡したキーケースには、ある程度の位置情報が分かるスマートタグを取り付けてあった。おかげで紗希の居場所がわかったのはもちろん、宮本家の長男である時哉の情報提供も大きかった。
また、逮捕された総一郎は『死に戻り』について明かすことはない。時哉が明かさせないとしている。
時哉は昇吾と協力し、蘇我不動産の不正会計問題を整理するとともに、総一郎が産ませた子供たちを探し出している最中だ。多くが総一郎から養育費を受け取っているが、中には受け取りを拒否した人もいる。
できるだけ多くの証拠を集めたうえで、総一郎がもう二度と表舞台に立てないようにする。それが落としどころだった。
「時哉兄さんにとっては、家族が何よりも大切だったんだ。血がつながっている、いないにかかわらずな」
運転しながら均が言った。
「俺も、時哉兄さんも、真琴のことを何も知らなかったよ……」
彼は力なく続けた。昇吾の弟、礼司の件で、確かに均は真琴が自分の能力を悪用していたと知った。
だが、男性たちから実績を奪っていたことが明るみに出ると、真琴の立場は急速に悪化していった。犯罪こそ問われなかったものの、ネット上に彼女の写真やプロフィールが大々的に出回り、社会的に追い詰められている。
今は時哉の取り計らいもあって、宮本家で義母の華崎和香と共に保護されていた。
「……真琴さんはこれからどうなるのかしら」
紗希は思わずつぶやいたが、均も莉々果も、どちらも答えは出せなかった。
「それで。私にも、昇吾さんから頼みごとをされてるの」
莉々果が切り出す。
昇吾は均と莉々果2人に、1つずつ頼みごとをしていったようだ。
彼なりの意図があるのか。それとも、均には頼みにくいことだったのか。
運転手である均はウインカーを出すと、コンビニエンスストアに車を停めた。新作のチラシや従業員募集の貼り紙が紗希の視界に入る。
紗希の様子をうかがいながら、莉々果は静かに口を開いた。
「……華崎和香、彼女が面会を希望している。会う?」
紗希は思いがけない名前にあっけにとられたのだった。