面会時間が終わった後。目元の熱が引くまで小田家で休憩した紗希は、ふたたび均の運転する車で移動していた。
手元には、和香が明日香から預かってきた手紙がある。
手紙には、俊樹と出会ってから明音を出産するまでの日々が綴られていた。
明日香はもともと、蘇我不動産の支店で勤務する経理担当だった。幼少期から経済的に困窮する日々が続き、金には人一倍の執着があったらしい。
ゆえに俊樹に見初められたとき、琴美を蹴落としてでも、蘇我家に取り入るつもりがあったこと。しかし蘇我不動産の仕事をおこなううち、その想いが変わっていったこと。明音や俊樹の変化に、何もできなかったこと。
淡々と明日香から見た状況を伝えるだけの内容で、どこにも謝罪や贖罪の言葉はない。
だが今の紗希にはむしろ、ありがたかった。
(明日香さんは明日香さんなりに人生を生き抜こうとしただけ……そう分かっただけで、十分よ)
和香は今後、主に蘇我家と華崎家の一族とのやり取りや、事務処理をおこなっていくのだという。
彼女がそばにいるなら、明日香や明音、俊樹はそれぞれの道を歩んでいける、そんな気がした。
車はやがて、見覚えのあるマンションに到着する。紗希と昇吾、2人が暮らす部屋の窓が見えて、紗希は思わず呟いた。
「……帰ってきたのね」
紗希はおかしくて笑ってしまう。日数にすれば、それほど長く離れていたわけではない。
にもかかわらず、まるで長期の海外旅行から帰ってきた瞬間のような感慨深さがあった。
「よし。紗希ちゃん、荷物はコンシェルジュさんにお願いしちゃうね」
「ありがとう。あら? 家までくる予定じゃなかった?」
首を傾げて莉々果に尋ねると、彼女は紗希の背後を指さす。玄関の向こうから、足早に誰かが近づいてくる音が聞こえた。
そこに立つ人を見て、紗希は思わず駆け出す。すぐさま玄関の自動ドアが開き、紗希はエントランスに駆けこんだ。
広げられた両腕に、迷うことなく紗希は飛び込む。
「紗希! おかえり」
「昇吾さん……!」
事後処理のために忙しくしているはずの昇吾が、そこに立っていた。
紗希の体を情熱的に昇吾が抱きしめる。紗希は彼の胸板に顔をうずめて、喜びに震えていた。
「ああ、よかった。言えた」
「おい、昇吾。時間はほとんどないからな?」
「分かっている」
均と交わされる会話に、紗希は昇吾が自分へ『おかえり』を言うためにわざわざ待っていたのだと気が付いた。
和香との会話のあと。とまったはずの涙が再び頬を流れ落ちていく。
「ただいま……昇吾さん」
やっとの思いで紗希が告げると、昇吾は大きく頷きながら、改めて抱きしめてくる。
「華崎の、お義母さんとの話はどうだった?」
「また詳しく、話します。たくさんありすぎて……たぶん、均さんを、3日くらい待たせてしまいますから」
苦笑する紗希に、昇吾は安心していた。冗談めかして話せるのなら、きっと大丈夫だ。
「わかった。じゃあ……一つだけ伝えてから」
「また、一つ、ですか」
紗希が楽し気に言うと、昇吾が突然、その場に跪いた。えっ、と思う間もなく、昇吾の手が小さなボックスを取り出した。
「婚約者として、ちゃんと伝えるべきだと思ったんだ」
壊れそうなガラス細工を扱うような繊細な指使いで、昇吾がボックスを開く。ボックスの中に煌めくのは、銀と真珠があしらわれた美しい指輪だ。
まさか、という思いが紗希の胸の内をよぎる。
「紗希、結婚してくれ」
立ち尽くす紗希の前から、昇吾は動かなかった。
「返事は後でも……」
「ダメです!」
思わず紗希は言葉を遮る。人は何時、命を落とすか分からない。突然の別れが、また訪れるかもしれない。
そう思うと、昇吾が伝えてくれた言葉に、今すぐに返事すべきだと思えてならなかった。
「っ……もちろん。結婚したいです。昇吾さん」
紗希の左手をすぐさま、昇吾が持ち上げた。そしてゆっくりと、指輪をはめていく。
「よかった。ピッタリだ」
「いったい何時考えたんですか?」
「それは……内緒なんだが。実は前から考えていたんだ。ちゃんと伝えるべきだ、それから……壊されてしまった真珠のイヤリングの代わりになるものを、と」
知らなかった。左手の薬指に輝く真珠に、紗希は目を細めた。
これからまた、昇吾は事後処理のために家をあけるだろう。だが、この指輪があるのなら、どんなことでも乗り越えられる。
「また行ってくる」
昇吾は名残惜しさを感じつつ、紗希の頬に小さくキスをした。
とんでもない勢いのプロポーズだが、紗希にはまるで悪い気がしなかった。
「っ、もう。いってらっしゃい、気を付けて」
ゆっくりと離れる体に、紗希は寂しさを感じることはない。左手の薬指にある指輪が、確実に自分と昇吾をつないでくれていると確信できていた。
「私に任せて、しっかりやっておいで」
莉々果の頼もしさを感じつつ、昇吾は頷く。均の運転する車に乗り込み、彼は颯爽と立ち去っていった。
「よし。紗希ちゃん、荷物整理しちゃおうか」
「そうしましょう。……ねえ莉々果、今日は泊っていってくれる?」
「えー、いいの!? 泊まりたい!」
2人は楽しそうに、それこそ数カ月ぶりにはしゃぎながら、マンションの中にはいっていく。
(決着を、つけていかなくちゃ……)
紗希は今後のことを思いながら、今はただ、休息することだけを考えるのだった。